げ込んでしまうと、やや離れてお手玉をとって遊んでいた女の子供たちまでが飛んで来て、
「先生を叩いてやりましょうよ」
「お土産《みやげ》三つに凧《たこ》三つ」
そこで、道庵先生をまたペチャ、ペチャと叩きました。
子供に叩かれて、ほうほうの体《てい》で家の中へ逃げ込んだ道庵先生は、座敷へ入ると、ケロリとして道中記をながめています。
道庵先生にとっては、今がその小康時代ともいうべきものでしょう。ナゼならば、先生の唯一の好敵手たる隣りの鰡八御殿《ぼらはちごてん》の主人公が、洋行から戻って来た暁には、またぞろ百五十万両もかけて、大盤振舞《おおばんぶるまい》をするにきまっていますから、それを見せつけられた日には、先生もまた相当の手段方法を講じなければならないはずですから。
ところがその鰡八大尽は洋行の留守中であり、江戸の武家は長州征伐というわけで、風雲の気はおのずから西に走《は》せてしまったようなあんばい[#「あんばい」に傍点]だから、先生もいささか張合抜けの体《てい》です。
そこで先生は、この余った力と機会とを利用して、五十日間の予定で、名古屋から京大阪を遊覧して来ようとの案を立てました。
先生が今度の旅程のうちに、特に名古屋を加えたというのは、先生独得の見識の存するところで、その意見を聞いてみると、先輩の弥次郎兵衛と喜多八が、東海道を旅行中に、名古屋を除外したというのが不平なのだ。
「べらぼうめ、太閤秀吉の生れた国と、金のしゃちほこを見落して、東海道|膝栗毛《ひざくりげ》もすさまじいや、尾張名古屋は城で持つと、雲助までも唄っていらあな、宮重《みやしげ》大根がどのくらい甘《うめ》えか、尾州味噌がどのくらいからいか、それを噛みわけてみねえことにゃ、東海道の神様に申しわけがねえ」
特に東海道の神様という神様があろうとも思われないが、これが先生の名古屋へ立寄る一つの理由となっているのであります。しかし、弥次郎兵衛と喜多八が名古屋を除外したからといって、故意にやったわけではなく、宮の宿から一番船で、七里の渡しを渡って、伊勢の桑名へ上陸の普通の順路を取ったまでだから、それをいまさらいい立てるのは、少し酷《こく》だと思われます。
それよりもこの際、京、上方の空気というものは、道庵先生などの近寄るべき空気ではないのですが、この先生のことだから、それをいえば、例のおれの匙にか
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