参りました」
 外に立っている男は、唐桟《とうざん》の襟のついた半纏《はんてん》を着て、玄冶店《げんやだな》の与三《よさ》もどきに、手拭で頬かむりをしたがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵であります。こうして不意に忍んで来ても、前以て相当の理解があればこそ、お絹もさほどには驚かないものと見えて、
「どうしてここがわかったの」
「昼のうち、あるところで、福兄さんの姿を見かけたものだから、あとをつけて漸《ようや》くわかりました」
「あんまり突然《だしぬけ》だから、こんなにびっくり[#「びっくり」に傍点]してしまった」
 お絹は胸へ手をさし込んでみる。
「……それでも笹子峠の時ほどびっくり[#「びっくり」に傍点]はなさるまい」
「あの時は命がけだったよ」
「こっちも命がけでしたよ。どうです、徳間峠の時と比べたら」
「あの時は怖かった、あんな怖い思いをしたことはありません」
「この通り右の片腕を打ち落されて、生れもつかぬ片輪にされちまったのは誰故でしょう」
「誰も頼みはしないのに」
「頼まれちゃやれません。時に御新造《ごしんぞ》、私はもう一ぺん危ない剣《つるぎ》の刃渡りをしてみようと思うんで。これはさる人から頼まれて、慾と二人づれなんだが――」
「まあ、ともかくもお上り」
といった時、表でガラリと戸のあく音がします。ハッと離れた二人。がんりき[#「がんりき」に傍点]は早くも庭の木立の蔭へかくれると、
 お絹は廊下を二足三足、
「福村が帰って来たようです」
「ちぇッ」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は木蔭でいまいましがる。

「奥様、奥様」
「おとうかい」
 暗いところを摺足《すりあし》して歩いて来るのは、女中のおとうに違いありません。
「はい」
「お前、どこへ行っていたの」
「ちょっと、表までお使に行って参りました」
「だまって行っては困るじゃないか」
「どうも済みませんでした。あの、奥様……さっき、わたしが出かける時に、お家の裏の方にうろうろしている人影がありましたから、気味が悪うございました」
「だから、なおさらのことじゃないか……勝手元の締りをよくしてお置き」
「はい」
「それから、玄関の戸も、しっかり[#「しっかり」に傍点]錠をおろしておしまい」
「それでも、まだ旦那様がお帰りになりませんのに」
「多分お泊りだろう」
「左様でございますか」
「そうしてお
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