さんには、別に好きな男があったっていうじゃないか」
「いろいろの噂があるにはあったがね。何しろ街道一といわれたくらいだから、人がいろいろのことをいいまさあ」
「なかなか固いという者もあれば、思いのほか浮気者だといってる者もあったね」
「いよいよ江戸へ行ってしまうという時に、高尾の若い坊さんが一人、縊《くび》れて死んでしまいました。それについて、またいろんな評判がありますが、つまり、その坊さんは、恋のかなわない恨みだということになっています」
「そんなことがあったか知ら」
「お前たちがまだ、鼻汁《はな》をたらしていた時分のことだ」
「してみると、お若さんは罪つくりだ」
「罪つくりにもなんにも、一体が女というものは、たいてい罪つくりに出来てるものですが、そのうちにも美《い》い女ほど、よけい罪つくりになるわけですねえ、旦那様」
といって老練なのが、竜之助のところへ言葉尻を持って来たのを、
「そうだ、そうだ」
と聞き流していると、前棒《さきぼう》の若いのが、
「罪つくりは女だけに限ったものでもあるめえ、男の方が、女に罪を作らせることも随分ありますねえ、旦那様」
両方から、罪のやり場を持ち込まれて竜之助は、
「そりゃ、どちらともいわれない」
この時、竜之助はふと妙な心持になりました。
五
本坊の前から炊谷《かしきだに》へかけて森々《しんしん》たる老杉《ろうさん》の中へ駕籠《かご》が進んで行く時分に、さきほどから小止みになっていた雨空の一角が破れて、そこから、かすかな月の光が洩れて出でました。
「占《し》めた、お月様が出たよ」
老杉の間から投げられた光を仰いで、行手を安心する駕籠舁の声を、駕籠の中で竜之助は聞いて、
「ああ、雨がやんだか」
「ええ、雨がやんでお月様が出ましたよ、もう占めたものです」
「この分だと、大見晴らしから小仏の五十丁峠で、月見ができますぜ」
しかしながら、山駕籠は別段に改まって急ぐというわけでもなく、老杉の間の、この辺はもう全く勾配はなくなっている杉の大樹の真暗い中を、小田原提灯の光一つをたよりにして、ずんずん進んで行きます。
駕籠に揺られている竜之助は、天に月あることを聞いたが、身は今、この老大樹の闇の中を進んでいることを知らない。ただ、梢《こずえ》はるかの上より降り落つる陰深な鳥の声を聞いて、ここは多分、護られたる霊域
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