ば、甲州街道きっての評判でございましたよ、街道を通る人が花屋のお若さんから、お茶を一ついただかないことには話の種になりませんでした、それだけ評判者でしたけれども、身の上をお聞き申すとかわいそうです」
「ははあ」
机竜之助は思わぬところから、女の身の上話を聞かされようとするのを、あながちいやとは思いませんでした。今までも、自分を推《お》しては問わず、女もまた好んで語ろうともしなかったが、雨の山駕籠を揺りながら、朴訥《ぼくとつ》な土地の者の口から無心に語り出でられようとする情味を、あえて妨げようとする気にもなりません。
「御存じですかね、お若さんは花屋の本当の娘ではありません、小さい時に貰われて来たんです」
「なるほど」
「貰われて来たんですけれども、その親許がわからないのですね」
「親がわからない?」
「それがね、わかっているのですけれども、わからないことにしてあるんです」
「というのは?」
「それが、なかなか入《い》り込んでいるんです。あの甲州街道の、駒木野のお関所の少し北のところに、お処刑場《しおきば》のあとがあるんでございます。今は、そこではお処刑《しおき》がありませんが、昔は、あそこでよく罪人が首を斬られたものです。今の花屋の死んだお爺さんが、そのお処刑場の傍らで供養にする花を売っていました、つまり花屋という名も、そこいらから起ったんでしょうねえ。ところで、あるとき一人の浪人が、その花屋のお爺さんに一口《ひとふり》の刀と、まだ乳《ち》ばなれのしない女の子を預けてどこかへ行ってしまいました、この女の子が、あのお若さんなのです。浪人衆は多分、父親なんでしょう、関所を通るについて、子供をつれては通りにくいことがあったのでしょう、それっきりお父さんというのが音沙汰がありませんで、女の子は花屋で引取って育てました、これがあのお若さんなんです。土地の人は、そんなことを知ってる者もありますが、知らないものもあります。本人のお若さんは、そのことを知らないでいるそうです」
「それが、どういう縁で、江戸の方へかたづいたのだ」
「そのことは、あんまりよく存じませんが、なんでもお若さんはいやがっていたのを、先方が強《た》ってというのに、世話人の方へ義理があって行くことになったんだそうですよ」
後ろの老練なのが、委細を説明していたが、この時、不意に前棒の若いのが口を出して、
「お若
前へ
次へ
全169ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング