「ところが、今だって本当のところはどうだかわかりゃあしません、わからないけれども、私は最初から眼をつぶっていますからね」
 按摩の言葉は、妙にからんで来ました。
 按摩を相手に話しているところへ、勝手口から静かに入って来て、
「お母さん、ただいま戻りました」
「梅ちゃんかえ」
 そこへ、手をついたのは十四五になる小娘であります。
「帰りに、楽屋の方へ廻って来たものですから、ツイ遅くなりました」
「楽屋では変ったこともなかったかエ」
「あの、力持のお勢《せい》さんが、少しお腹が悪いと言って寝ていました」
「勢ちゃんがかい」
「ええ、それでもたいしたことはないのでしょう、寝ながらみんなと笑い話をしていましたから」
「鬼のかくらん[#「かくらん」に傍点]だろう」
「あ、そうそう、福兄《ふくにい》さんが来て待っていました、今日はどうしても親方にお目にかかりたいが、いつ帰るだろう、帰るまでまっているとおっしゃいました」
「ここを言やあしないだろうね」
「エエ、誰も言いませんでした。多分、晩方までには帰るでしょうと、お勢さんが言いましたら、福兄さんが、それじゃ晩方まで待っていようとお言いでした」
「何だろう」
 お角が、ちょっと首を傾《かし》げた時に、按摩《あんま》は一通り療治を終って、
「どうも御窮屈さまでございました」
「御苦労さま」
 そこで按摩にお鳥目《ちょうもく》をやって帰してしまってから、お角はまだ思案の体《てい》で、
「福兄さん一人で来たのかエ、誰もお連れはなかったかエ」
「ええ、どなたもお連衆《つれしゅう》はありませんようでした」
「あってみようか知ら」
 小娘は唄の本を箪笥《たんす》へ載せて、勝手元を働こうとするのを、お角が呼び留めて、
「そっちはあとにして、二階のお嬢様に御膳《ごぜん》を上げて下さい」
「承知いたしました」
 この小娘は、お角が掘り出して貰い受け、今、仕込み最中の、ちょっといい子で、お母さん呼ばわりをして懐《なつ》いています。膳ごしらえをして二階へ上ったあとで、お角は巻帯をズルズルと解いて、着物をきがえにかかりました。
 藍の小弁慶のお召の半纏《はんてん》を着て、鏡に向って立膝をしながら、洗い髪の兵庫《ひょうご》に、黄楊《つげ》の櫛を無雑作《むぞうさ》に横にさして立ち上るところへ、二階から小娘が下りて来ました。
「梅ちゃん、わたしは、これ
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