お角の前へ姿を現わしたのは、ねまきに羽織を引っかけた女の姿に違いはないけれど、どうしたものか、頭からすっぽりとお高祖頭巾《こそずきん》をかぶったままです。
「おかみさん」
「お嬢様、もうおよろしうございますか」
「ええ、もう癒《なお》ってしまいました」
 お角が、ていねい[#「ていねい」に傍点]であるのに、女はなかなか鷹揚《おうよう》です。それに、いくらなんでも、人の前に出て頭巾をかぶったなりに挨拶をするのは、みようによっては甚だしい横柄《おうへい》なもので、それをお角ほどの女が、一目置いて応対しているのは、よほどの奇観といわなければならないことです。
「まあ、お話し下さいまし、わたしも退屈して困っていますから、どうぞ」
といって、お角は、さながら主筋にでも仕えるように、至ってていねい[#「ていねい」に傍点]に座蒲団をすすめると、女は、その上へ坐っても、いっこう頭巾を取ろうとしないし、お角も一向、それを気にしていないのがおかしいほどです。
 それからお角が、お茶をすすめたり、羊羹《ようかん》をすすめたりしていると、
「おかみさん」
「はい」
「わたしは、もうすっかり癒《なお》りましたから、どうぞ、わたしの頼みを聞いて下さい」
「ですけれども」
「いいえ、かまいませんから」
 お高祖頭巾の女は、何かを頼みに来たのです。けれども、頼むというよりは圧迫するような態度で、それをお角ほどの女が、あしらい兼ねているあんばいがいよいよ変です。
「ですけれども、お嬢様……」
と、お角がようやく立て直して、
「そう申してはなんですけれども、わたしは、あなたが、もうあの方にお目にかからないのがおためになると存じます」
「それはどうしてですか」
「あなたは、御存じになっておりますか知ら」
「何を」
「あの方の本当のお名前を」
「エエ、あれは机竜之助と申します、吉田竜太郎というのは仮りの名前です」
「そうしてお嬢様、あなたのごらんになったのでは、あの方は善い人ですか、それとも悪い人ですか」
「どちらだか知りませんが、わたしは、あの人が大好きなのです」
「もし、悪い人であっても?」
「ええ、あの人がほんとうに、わたしを可愛がってくれるから、それでわたしはあの人が忘れられません、あの人だけがほんとうに、わたしを可愛がってくれるのです。それは、あの人が眼が見えないからです、眼が見える人は一人でも
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