お茶を一つお上りなさいまし」
「有難う」
 お松は丁寧に兵馬にお茶をすすめたが、兵馬の浮かぬ面色《かおいろ》をそっとながめて、
「どちらへおいでになりました」
「エエ、あの……」
 なにげないことでも、お松にたずねられると針の莚《むしろ》にいるような心持がします。
「直ぐにお休みになりますか、それとも何か召し上りますか」
「いいえ、何も要りません……あの、お松どの、そこへ坐って下さい。あなたにはこの頃中、絶えず心配をかけていた上に、少なからぬ借金までしておりました。今日はこれを預かっておいて下さい」
といって、兵馬が改めてお松の前に置いたのは、例の金包です。
「ええ? これを、わたしがお預かりするのですか?」
 お松は、その金包をながめて合点がゆかない様子。それは、この頃中の兵馬は、ずいぶん金に飢えているように見えるのに、今ここで突然に投げ出した金は、どう見ても今のこの人の手には余りそうな重味があります。
「預かっておいて下さい」
「お預かり申してよろしうございますが……数をお改め下さいまし」
「数をあらためる必要はありません、そのまま、あなたにお預け申します」
「いいえ、どうぞ、わたしの前で数をおあらため下さいまし」
「それには及びません」
「兵馬様」
 お松は、あらたまって兵馬の名を呼びました。兵馬は答えないで、火鉢の前にじっと俯《うつむ》いている様子。
「夜分、こんなに遅く、これだけのお金をただ預かれとおっしゃられたのでは、わたくしには預かりきれないのでございます、そう申し上げてはお気にさわるかも知れませんが、このごろは何かの入目《いりめ》で、わたくしたちの目にさえお困りの様子がありありわかりますのに、今晩に限って、これだけのお金を持っておいでになったのが、わたくしにはかえって心配の種でございます」
「いや、この金は決して心配すべき性質の金ではありません、ちと入用《いりよう》があって、人から融通してもらったところ、急にそれが不用になったから、あなたに預かっておいてもらいたいのです、金高は三百両ほどあると思います」
「どなたが、その三百両のお金を、あなたに御融通になりましたのですか」
 自分の貯えも、お君の貯えも、一緒にして融通してしまったほどの兵馬の身に、忽《たちま》ち三百両の金を融通してくれるほどの人がどこにあるだろう。それを考えると、お松は兵馬の心持が、怖
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