んとうに米友が槍を心得ているのだと気のついたものはありません。自棄に振り廻している槍の間から、本格と変則とが米友流に随処にころがり出すその妙処を、見て取ってくれる人のないのが気の毒です。気の毒であるのみならず、この時に、どこからともなく泥草鞋《どろわらじ》が片一方、米友の面上を望んで降って来ました。その泥草鞋は身を沈めて避けたけれども、それを合図に石や、木や、竹切れが、雨霰《あめあられ》と降って来ました。
それと見るや米友は横っ飛びに飛んで、三仏堂の縁の上へ飛び上ったかと思うと、扉を押して堂の中へ身を隠し、素早く中から扉を閉して閂《かんぬき》を締めました。
そこで、かの槍持奴をはじめ、仲間どもは扉の前まで押寄せたけれども、さて、それを踏み破って、一歩を堂の中へ踏み入れようということには、躊躇《ちゅうちょ》しなければなりません。踏み込んだが最後、中に待ち構えた気狂いのために、田楽刺しにされることは請合いと思わなければなりません。そのほかの群集は徒《いたず》らに三仏堂のまわりを取巻いて、わいわい噪《さわ》いでいるばかりです。
ややあって、高い欄間《らんま》の間から面《かお》を現わした宇治山田の米友が、群集を見下ろしてこう言いました。
「おいらは宇治山田の米友といって、生れは伊勢の国の拝田村の者だが、わけがあって江戸へ出て来たには出て来たが、江戸に来ても根っから詰まらねえや、時候のせいかこのごろは、気がいらいらしてたまらねえ、右を向いても、左を向いても、癪《しゃく》にさわる世の中だ、いったい、おいらのような人間は、見るもの、聞くものが癪にさわるように出来てるんだと、このごろつくづくそう思った、だから、死んでしまった方がいいんだろう、命なんぞは惜しかあねえや、この世の中に未練なんぞはありゃしねえんだ、おいらは気が短けえから、いやになると自分の命までがいやになってたまらねえ、親兄弟があるわけじゃなし、女房子供があるわけでもねえから、どうでもなる命だ、命のもてあましだ、そうかと言って、川へ飛んだり、首を縊《くく》ったりするのも気が利《き》かねえからな、ちょうどいいところだ、あの建具屋の若いのに身代りになってやろうと思って、こんな悪戯《いたずら》をやり出したんだ、どうだい、あの若いのにはおかみさんもあれば、子供もあるという話だから、おいらは今いう通り、そんな厄介者は一人もねえ命のもてあまし者なんだから、身代りにしてくれねえか、つまり、あの建具屋の縄を解いてやって、その代りに、おいらをふん縛ってくれ、あの若いのを助けてやってくれさえすりゃあ、素直《すなお》にこの槍を返してやるよ、それが承知ができなけりゃ、当分このお堂の中でお籠《こも》りだ、無茶に踏み込んで来る奴がありゃ、この十文字でいちいちドテッ腹へ穴をあけて、冥途《めいど》へ道連れにしてやるまでのことだよ、断わっておくが、こう見えても、おいらは槍だけは一人前に遣《つか》えるんだぜ、見る人が見たらわかるんだろうが、おいらの槍は天然自然に会得《えとく》しているんだぜ、それに木下流の磨きをかけているんだぜ、槍は身に応じたもので、おいらの身体では二間三間の槍は柄《がら》に合わねえ、九尺の十文字でさえ、ちっとばかり長過ぎるんだが、どうやらこれなら使えねえことはなかろう、本気にこの槍で、おいらが荒《あば》れ出した日には、死人、怪我人が山ほど出来るぜ、危ねえもんだが、おいらはそれをやらねえ、おとなしくこのお堂の中へ隠れているから、誰か確かな人を証人に、あの建具屋の若いのを、おいらの眼の前で許してやってくれ、そうすれば、この槍はちゃんと返してやった上に、おいらが身代りになって、牢ん中へブチ込まれようとも、見ているところで首をちょんぎられようとも不足は言わねえ、誰でもいいから話のわかる人を出して、しっかりと挨拶をしてくれ、それからついでに、お握飯《むすび》に沢庵《たくあん》をつけて三つ四つ差入れてもらいてえ」
聞いている者がその言い分の不敵なのに呆《あき》れ返りました。呆れ返りながらも、聞いてみると幾分の道理がないでもない。ことに最後に握飯《むすび》を差入れろということは、かなり虫のいい注文だと思いました。しかし腹が減っているだろうから、それも無理のない注文だと同情する者もありました。
この事件はついに、泰叡山《たいえいざん》の方丈《ほうじょう》を煩わして、解決をつけることになったのは幸いです。
槍の主も、こうなっては事を好まないらしい。米友の言うような条件で、建具屋の平吉を許してやる代りに、米友が縛られることになりました。その証人は泰叡山の方丈です。十文字の槍は元の主へかえって、米友は縄をかけられて、名主の家へ預けられました。
それでこの事件の当座の解決は出来たが、後難があるといえばその後難は、一に米友の身にかかって来るはずです。けれども、それは泰叡山の取扱いでどうにかなることでしょう。
二
「ナニ、水戸の山崎? 山崎がここへやって来たのか」
さすがの南条力も、何か呆《あき》れ面《がお》でありました。
「さきから、お屋敷の前を行ったり来たりしておいでになりました」
「そうか、訪ねて来たものを会わないわけにもいくまい、ここへ案内してくれ給え」
案内に立ったお松は、再び玄関へ取って返そうとすると、南条はお松を呼び留めて、
「お松どの、ちょっと待ってくれ、その山崎という男は、直接《じか》に拙者の名を言って尋ねて来たか、それとも、最初にほかの者の名を言うて訪ねて来たのではないか」
「いいえ、ほかにはどなた様のお名前もおっしゃりはなさいません、南条様にお目にかかりたいと申しました」
「そうか、それならばよろしい、間違っても宇津木兵馬を訪ねて来たと言いはしまいな」
「左様なことはおっしゃいません」
「ま、もう少し待ってくれ、いま訪ねて来たその山崎譲という男はな、宇津木兵馬に会わせてはならない人だ、兵馬がこの家にいるということを知らせても悪い人だ、先方がなんと言っても兵馬の名を出してはいけないぜ。それから、兵馬の部屋をよく始末して、山崎に中を見られないようにしておかなくてはいかん、この後とても、その辺はよく心得ておいてくれ給えよ」
南条は立って行くお松を、わざわざ呼び留めて、これだけの注意を与えました。
やがて案内を受けた山崎は、南条の部屋へ入ると、
「いつぞやは失礼」
と言って挨拶しました。
「その節は失礼」
南条もまた同じようなことを言って、礼を返しました。
してみればこの二人は、もう既にどこかで初対面が済んでいるものと見えます。多分、中仙道筋から相前後して、甲府の城下へ入ってから後、あの辺で相見るの機会があったものと見なければなりません。
「南条殿はいつごろ、こちらへおいでになりましたな」
「左様、あれからまもなく、こっちへやって参りましたよ」
「ははあ、左様でござるか」
「して山崎君、君は」
「拙者は、つい、この二三日前に出て来ました」
「左様でござるか。して、当分はこちらにおいでか、或いはまた甲州筋へお立帰りなさるかな」
「早速、甲府へ帰り、それからまた上方《かみがた》へ出かけるつもりであったが、江戸へ来て見ると、江戸にも存外、いたずら者が多いから、当分は帰らぬことになりましたわい」
「ハハハ、どこへ行っても当節は、いたずら者が多くて困りますな」
「仰せの通り。上方のいたずら者は禁廷のお庭の前でいたずらをする、江戸のいたずら者は将軍の膝元をつついてふざける、なかにはものずきなのがあって、拙者如きの首まで欲しがる奴があるから、全くやりきれたものではない」
山崎はこう言って自分の首筋を撫でて見せると、南条は抜からぬ面《かお》をして、
「実際、あぶないものさねえ」
と言いました。
「あぶないことこの上なし、今の江戸は将軍家がお留守で、お膝元の警備がゆるんでいるところにつけ込んで、たち[#「たち」に傍点]のよくないいたずら者がウヨウヨしている」
「それとても、たかの知れた浮浪人の仕業《しわざ》ゆえに、大したことは、ようせまい」
「ところが、事体《じたい》は意外に重大で、浮浪人の後ろには、容易ならぬ巨根《おおね》が張っている、その根を断つにあらざれば葉は枯れない。どうです南条君、その巨根をひとつ掘り返してみたいものだが、手を貸して下さるまいか」
「拙者共でお役に立つならば、ずいぶんお手助けを致すまいものでもないが、いったい、その巨根というのは何者だ」
「それは三田の四国町あたりに巣を食っている」
「なるほど」
「つまり、いたずら者の本家本元は薩摩だ、薩摩というやつは実に不埒千万《ふらちせんばん》なやつだ、その薩摩を取って押えて、ふか[#「ふか」に傍点]したり、焼いたりしてしまいたいものだ」
「なるほど」
南条はなるほどと言って、妙な笑い方をしました。
「薩摩を掘り返して、ふか[#「ふか」に傍点]したり、焼いたりして食ってしまわなければ、江戸の市中は鎮《しず》まらん」
山崎が、今にもふか[#「ふか」に傍点]したての薯《いも》を食ってしまいそうなことを言うと、南条は皮肉な面をして、
「しかし、七十万石の薩摩薯だから、ふか[#「ふか」に傍点]しても、焼いても、かなり食いでがあるなあ。第一、ずいぶんあっちこっちへ蔓《つる》が張っているだろうから、掘り返すだけでもなかなか骨の折れる仕事じゃ」
「我々の仕業は、ただ蔓を手繰《たぐ》ってみりゃいいのだ、手繰ってみると、思いがけないところへその蔓が張っているから妙だ、本所の相生町あたりまで、その薯蔓が伸びているからなあ」
山崎は胡坐《あぐら》をかき直して、煙草盆をつるし上げ、鼻の先まで持って来ました。
そこで話が少し途切れているところへ、廊下を渡って来る人の足音がありました。南条の居間の前で、その足音が止まると、
「南条殿、おいででござりますか」
障子を颯《さっ》と押開いたものです。
「あ……」
それで南条も、ややあわてました。障子を押開いた人も面食って、入りもやらず、さりとて立去りもならず、
「お客来《きゃくらい》でしたか、失礼」
その人はぜひなく障子を締め直して立去ろうとしたが、そのお客と面《かお》を見合せないわけにはゆきません。
「おお……」
その声と共に障子をたてきって、さながら、見るべからざるものを見たように、あわただしくその場を辞して行きました。ここに来合せたのは不幸にして宇津木兵馬であります。山崎譲は南条に向って、
「南条殿、今のは貴殿のお知合いか」
「うむ、知っている」
この時の南条の返答ぶりを聞いて山崎は、
「南条君、君、少年をそそのかしちゃいけないぜ」
こう言って、頗《すこぶ》る冷淡に構えました。
「そりゃどういう意味じゃ」
南条もそらとぼけているようです。山崎は莞爾《にっこり》と笑いました。
「いったい、九州の人間は、婦人よりも少年を愛する癖がある、君もまた九州人だろう」
「以ての外、拙者が九州人でない証拠は、拙者の音《おん》を聞いたらわかるだろう、婦人や少年のことは与《あずか》り知らんことじゃ」
「ははあ」
山崎は、なおひとしお思案の体《てい》で、南条の弁解をうっかりと聞き流していたが、また煙草盆を鼻の先へつるし上げて、煙草の火をつけました。屈《こご》んで煙草盆の火をつけないで、火をつけるたびに煙草盆の方を鼻の先までつるし上げるのがこの男の癖と見えます。
南条が何かしら躍起の体《てい》に見えるのに、山崎はかえって冷淡に落着いて、煙草を一ぷく吹かしてから、
「それはどうでもよろしいことだが、南条殿、今のあの少年は、ちょっとみどころのありそうな少年でござるな」
「山崎君、みどころがあるかないか、君には一見して、そんなことがわかるのか」
「わかる」
と言いながら山崎譲は吹殻をハタくと、またしても煙草盆を持って鼻の先へつるし上げました。
南条力は横の方を向いて、壁にかけた山水画をながめながめ、しきりに頬ひげを撫でている。山崎は煙草吸いだが、南条は煙草をのまない。
「というのは
前へ
次へ
全19ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング