いなお銀様が、もしいるならば、今頃もたしかに、血を刺して、お経を書いていなければならないはずです。
 その水を汲むたびに井戸をのぞき込むと、神尾主膳は血管が裂けるほどに憤《おこ》り出して、
「お喋り坊主、出て来い」
と怒号します。主膳の眼には、たしかにこの井戸の底にお喋り坊主がいて、減らず口を叩いて自分を、おひゃらかしでもするものと見ているらしい。
「お喋り坊主、貴様の言い草が、いまだに耳に残って不愉快千万でたまらぬわい、おそらく一生のうちに、貴様ほど不愉快な奴はなかろう、貴様のことを思い出すと、骨から肉が浮び出すほど忌《いや》になるわい、つべこべと尋ねられもしないお喋りを、井戸へ投げ込まれてまで喋りつづけている声が、地獄の底から迷うて来たもののように耳に残っている、思い出しても癇《かん》にさわってたまらぬ、貴様を引き出して、骨も身も一度に擦りつぶしてくれぬ上は、この癇が納まらぬわい」
 神尾主膳はこう言って地団駄を踏みながら、しきりに水を汲み上げては被ります。その度毎に、弁信に対する恨みは骨髄に徹するもののように、身を戦《わなな》かせるのであります。
 果してお銀様はその時、たった一人で土蔵の中でお経を写しておりました。針で自分の肉体を刺して、その血で丹念に一字一字の法華経を写して「我此土《がしど》安穏、天人《てんじん》常充満」というところに至った時に、車井戸がキリキリと鳴り出したから、お銀様はゾッと身ぶるいをして筆を下へ置きます。
「お喋り坊主」
 神尾の世にも口惜《くや》しそうな声が、そのいやな深夜の車井戸の響きと共に、お銀様の耳朶《じだ》に触れると共に、お銀様の眼前に現われたのは、そのお喋り坊主の弁信の姿ではなく、甲州でむごたらしい虐殺に遇って、訴うるところなき恨みを呑んで横死を遂げた愛人の幸内が姿であります。
「お嬢様、あなたは幸内がかわいそうだと思召《おぼしめ》しになりませんか、もし幸内がかわいそうだと思召すなら、なぜ、あなたは神尾主膳を殺して下さらない、神尾を討って幸内の仇を酬《むく》いて下さらないのがお恨みでございます、倶《とも》に天を戴かずと申しますのに、私をなぶり殺しにした神尾主膳と、そうして同じ屋敷に住んでいていいのですか、それでこの世に残した幸内の恨みが消えると思召しますか、今も神尾主膳は、ああして私を苦しめています、あの車井戸の音がキリキリと軋《きし》るたびに、私の骨と肉がそれだけ擦り減らされて参りますのです、死んだ後までも、私がかわいそうだと思召すなら、どうか、あの車井戸の音だけでも差止めて下さい、ああ、苦しい、私は神尾主膳のために、鉄《くろがね》の熊手で骨と肉とを掻きむしられながら、地獄の底へ落ちて行くのでございます」
 お銀様の耳には、車井戸の音も、神尾の怒号も、一つになって幸内が恨みとなって響いて来るのです。
「わたしは、あの車井戸の音がいやだ、夜更けにあの音を聞くのはいやだ」
 お銀様は目を閉じて幸内の面影《おもかげ》を見まいとし、耳をふさいで車井戸の音を聞くまいとしました。けれども車井戸は一倍けたたましく軋り、神尾の怒号は、耳をふさいでいるお銀様の両手をもぎ離すほどに烈しく鳴りはためいて、
「寝ても醒めても、貴様のお喋りが癇にさわってたまらない、井戸の中から出て来い、それとも土蔵の中に隠れているのか、土蔵の中に隠れているならば、土蔵の戸を押破って、この槍で突き殺してくれよう」
 散々《さんざん》に井戸へ当り散らした神尾主膳は、投げ捨てた槍を拾い取って、この土蔵をめがけて突進して来ました。
 神尾主膳は土蔵の引戸を手荒く引っぱったけれども、それは内から錠《じょう》が卸してあって、引いても押しても容易にあくものではありません。
 そのたびに激昂する主膳は、ドシンドシンと戸前にぶっつかりはじめます。果ては槍の石突で戸の隙をコジにかかります。けれども尋常の雨戸と違って、いったん、内から錠を卸した以上は、兇暴な力を以てしても外から打ちこわすわけにはゆきません。
 自分の力いっぱいの暴力を利用したけれども、ビクともしないので神尾は、いよいよ激昂しているが、その激昂はいたずらごとで、この時分にはお銀様も、神尾の無駄骨折りを冷笑するくらいの余裕を持っておりました。破れるものなら破ってごらん、という驕《おご》れる態度を以て、お銀様は戸前で狂っている神尾主膳を笑止《しょうし》がっていました。
 さりとて、お銀様のこの驕慢心が永く続くものではありません。常識を失っているとはいえ、兇暴の時には兇暴の知恵が働くものであります。
「坊主、お喋り坊主、中で押えてるな、小癪な奴だ、しっかりと押えてあかないようにしているな、よし覚えていろ、今、あくようにしてあけて見せるからな」
 神尾主膳はこう言って、暫く暴力を中止しましたから、中でお銀様は、それ見ろと言わぬばかりの心持です。それは力の尽きた神尾主膳が、負惜みから言った捨台詞《すてぜりふ》と思ったからです。この捨台詞で引上げて、母屋《おもや》へ帰って寝込んでしまうのが落ちだろうと思ったからです。
 果せる哉《かな》、それから後は扉へ突当る音もしなければ、押したり引いたりしてみることもなく、槍を隙間へ突込んでコジあけようとするような無茶な物音も聞えません。しかし、左様な物音が聞えないからといって、それは決して神尾主膳がこの場を去って、母屋へ引揚げたのではありません。神尾主膳は今もなお土蔵の周囲をうろうろしながら、よろめく足を踏み締めては酔眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、槍は片手に、そこらあたりから頻《しき》りに物を掻き集めています。その掻き集めている物というのは、荒れた庭内に落ちている杉の枯葉だの、木の枝だの、竹の折れだのという物を、手に任せて掻き集めているのであります。危なっかしい手つきで、それを掻き集めては例の土蔵の戸前へ持って来て、無暗に積むものだから、忽ち小山のように盛り上げてしまいました。
「占《し》めた!」
 最後に神尾主膳が、槍を投げ出して両手で抱え込んだのは一束《ひとたば》の薪です。その土蔵の廂《ひさし》に高く積み上げてあった薪の束を発見したからのことで、それを発見すると神尾は占めたとばかり、槍を投げ出して、一束ずつ抱え出して、前に積み上げた枯葉や、木の枝の上へ、左右から立てかけたものです。
 時分はよしと見た頃合に、主膳は、やはり本性《ほんしょう》たがわず、投げ出しておいた槍を手さぐりに拾い取って、
「坊主、覚えていろ、今、あくようにしてあけて見せるから後悔するな」
 こう言って、今度は、たしかにこの土蔵の前を立去って、母屋の方へ行く足音がします。
 お銀様は神尾の挙動がわからないから、この時も負惜みの捨台詞《すてぜりふ》だろうと思って、やはり七分の冷笑気味でおりましたが、暫くして、また足音が聞え出したので、オヤと思いました。さても執念深い、力が尽きて、テレ隠しの捨台詞で、母屋へ逃げ帰って寝込んだものだろうと思っていたところが、たしかにまた、やって来た。
「さあ、どうだ、お喋り坊主、この蝋燭《ろうそく》で焼き殺してくれるぞ」
 その声を聞いたお銀様がたちあがらないわけにはゆきません。事実神尾主膳は、母屋へ行って蝋燭へ火をつけて来ました。さいぜんのガサガサは、実にこの土蔵の戸前を焼こうとする材料を集めていたのだと気のついた時には、決して好い心持はしません。
 神尾主膳はたしか、提灯へ入れて持って来た蝋燭を裸にして、それを積み上げた枯葉と木の枝と薪の中へ突込んで、火をつけはじめたものです。それと覚《さと》ったお銀様がじっとしておられないのはその道理です。
 主膳のやりそうなことであると思いました。酒に乱れて惨忍性を発揮せられた時の神尾は、たしかにそのくらいのことはやり兼ねません。また、そういう場合に限って、惨忍性を煽《あお》るには都合のよい知恵だけが働くように出来た神尾の性格を知っているだけに、お銀様の怖れが一層深くないということはありません。
 この土蔵は一方口である。前に火をつけられると後ろへ逃げることができない。横にも縦にも、蹴破って走るというわけにもゆかない。二階に窓があるにはあるけれども、それは筋鉄《すじがね》が入って鉄の網が張ってある。逃げるのならば今のうちである。火の手のまだ揚らない先に内から戸を押開いて、そこを突破するよりほかは手段も方法も無いことです。聡明なお銀様がそこに気のつかないはずはありません。同時にまた走り出せば当然、神尾の網にひっかかることを覚悟しなければならないのを知らないはずはありません。神尾の憎んでいるのは盲法師の弁信にあるらしいけれど、さりとてこうなった時には、獲物《えもの》の見さかいがあるべしとは思われない。土蔵の戸前を突破し得た時は、神尾の槍先が待っている。最後までここに踏みとどまって焼け死ぬか、それとも一刻を争うて突破を試むるか。お銀様は手早く身づくろいしました。同時に神尾の声高く笑うのが聞えます。
「アハハハハ、火水《ひみず》の苦しみとはこれだ、水の中へ投げ込まれて往生のしきれぬ奴が、火の中で焼け死ぬのだ、お喋り坊主、これでも出て来ないか」
 パチパチと火の燃える音が聞えます。プスプスと枯葉のいぶる音も聞えます。土蔵の戸前は非常に厚味のある板を二重に張って、中には筋鉄《すじがね》が入って、上の部分がやっと日の目の透るほどの格子になっているから、そう容易《たやす》く焼け抜けるとも思われないが、相手は火であるから、相当の時間と力が加われば何物をも燃やしてしまいます。それが燃える時分には、土蔵の中は煙でいっぱいになって、火で焼け死ぬ前に、人は煙のために窒息してしまわねばならないことは明らかです。
 身仕度したお銀様は、この際に何を持って出ようとの分別はありませんでした。手に触れた一本の脇差を持って、土蔵の二階の梯子段を転がるように走せ下りました。
「お喋り坊主、何か文句があるならここで一番、喋ってみろ、久しく乾いているから、メラメラと赤い舌を出して小気味よく燃える、井戸の底へ投げ込まれて往生をしそこなうのと、火の中で苦しがるのとどちらがよい、貴様のために、この面体《めんてい》に生れもつかぬ大傷が出来た、それが憎いからこうしてくれるのだ、よく焼かれて往生しろ」
 神尾主膳は濡れみづくになった身体で、燃えさかる火を望んでは喜び狂い、手に持った槍の石突を火の中へ突込んでは薪を浮かせて、火勢を煽《あお》ろうとしています。
 頭から掻巻《かいまき》を被《かぶ》ったお銀様が、内から戸を押開いて、脱兎《だっと》の勢いで、その燃えさかる火の中へ飛び出したのはこの時であります。
「熱《あつ》、熱、熱」
 お銀様は火を踏んで、掻巻もろともにその中を転がり出しました。
「熱、熱、熱」
 同じように叫んで火の外に転がったのは、神尾主膳であります。
「熱、熱、熱、出たな坊主、熱」
 お銀様も転がる、主膳も転がって起き上れない。勢いのようやく加わった火は炎々と燃え上ります。
 頭から掻巻を被ったお銀様が、俵を転がしたように火の中を転がり出ると、それに驚いた神尾主膳が、同じように槍を持ったまま転がりました。
「出たな坊主」
 それでも神尾の転がったのは、それと見定めてから転がったものらしく、転がっても槍は手放さないで、二三度もがいてから起き直った時に、その槍をとりのべて、眼前に転がり出した掻巻の俵を伸突《のべつ》きに突きました。
 ところが慌《あわ》てているから、槍の石突で突いてしまっているから、また槍を取り直す時にお銀様は、ようやく掻巻の中から脱け出すと、その鼻先に神尾の槍の穂の稲妻《いなずま》です。危うくその槍の穂先を避けましたけれども、神尾の足許も手先も狂いきって、繰りのべる槍も、手許へ引く槍も、すこぶる怪しいものとは言いながら、たしかにめざすものを見かけて突く槍です。ことに相当に鍛錬を積んでいる槍ですから、一つ逃れてまた一つです。それを逃れると、ひょろひょろしながらも、よろよろしながらも、ほとんど透
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