ち分があるのだから、不動様を閻魔様《えんまさま》の許《もと》に頼むわけにはゆくまい。不動様は不動堂に限ると思いました。で、住職か或いは堂守に、事情を言いこしらえて納めてしまえばイヤとは言うまい。イヤと言えば抛《ほう》り込んで逃げてしまおう、とまで決心して、ようやく人通りのあるところへ出た時に、この辺にしかるべき不動堂はないものかと人に尋ねました。その人が、下総の成田山の出張所が、御府内のどこそこにあるということをよく教えて聞かせました。しかし米友は、江戸の市中まで持って帰りたくはないのだから、江戸に近い田舎でしかるべき不動様はないかというようなことを尋ねると、それはまた滝の川の不動様と、目黒の不動様だろうという返事でありました。
 その二つの不動様のうち、どれが近いかと尋ねると、ここからでは目黒の方が、ずっと近いということでしたから米友は、よし、それでは目黒の不動にしようと、その方角を、よくよく聞き取ってそちらに足を向けました。
 米友が不動尊の画像をかついで、目黒不動の境内《けいだい》まで来て見ると、そこが大変に賑やかで、お祭か縁日かであるらしい。あんまり賑やかで、かえってきまりが悪いと思いながら米友は、その人混みの中へずんずんと入って行くと、その日にこの庭で「富《とみ》」があったものです。
 米友には、まだ「富」の観念がよく定まっておらないながらに、札場《ふだば》の中へ入って、人の蔭になって様子をながめていたものです。
 世話人が箱の中から、錐《きり》で本札《もとふだ》を突き出して番号を読むと、みんなが持合せの影札を見比べて、当ったものは嬉しそうに、当らないものは、しおらしい面《かお》をしています。当った番号は紙に書いて、向うの柱へ貼り並べられました。それが大変な人気ですから、札には利害関係のない米友も、つい面白くなって頻りに富札の景気を見ていました。
 面白がって見ているうちに、一の富七十三番の札が落ちました。跳《おど》り上って喜んだのは品川宿の建具屋の平吉という若い男で、この百両が平吉の手に落ちることにきまると、当人も嬉ぶし、誰も彼も羨ましそうに見えました。平さんは札とひきかえにその百両を受取って、いそいそとその場を出かけると、平吉を知っている人が、あぶないものだ、平さんにあれを持たしては帰りがあぶないと言って眉をひそめたのは、その幸運をそねんで言うものとは思われません。また帰りに泥棒や追剥《おいはぎ》につけられるという心配でもなく、それは、平さんという男の人柄を見てもわかることで、持ちつけない大金を持ったため、途中、出来心でどんなところへひっかかってしまうかわからない。それをあぶながっているものらしくあります。
 果せる哉《かな》、この平さんは百両の富が当った嬉しまぎれに、友達を無暗に引っぱって角の店へ上って、景気よく一杯やり出しました。
 これは平さんがあまりよろしくないのです。こういう時は、何を置いてもいったん自宅へ帰って、女房の前へその百両を見せて喜ばせた上に、近所の者を呼んで一杯やるということにしなければ本当ではないのだが、嬉しい時は、なかなかそうは思慮が廻らないもので、ついここで百両の封を切って散財することになりました。
 そうすると、みんなしてこの平さんをチヤホヤした上に、店の女中を初め、見知らぬお客までが、その当り運にあやかりたいというわけで、一杯いただきたがるものだから、平さんは断わりきれないで、つい、うかうかと呑んでいるうちに、腹のしまりがつかなくなりました。どのみち、あてにしない金であるところへ、こうして福の神の生れ代りみたように、あがめ奉られては、平さんに限らず箍《たが》のゆるむのは仕方のないことです。
 ちょうど、この時に、五六騎|轡《くつわ》を並べて通りかかった侍の遠乗りがあったために大事が持ち上りました。いずれもしかるべき身分でもあり、年配でもあって、軽からぬ役目をつとめているものらしい人品です。わざと多くのともをつれないで、微行《しのび》の体《てい》の遠乗りであったが、そのうちの一人が、逞《たくま》しい下郎に槍を立てさせていました。
 その槍は九尺柄の十文字であります。それがちょうど、この店の下へ通りかかった時に、運悪く二階の上からクルクルと舞い下って、この十文字の槍の鞘《さや》にひっかかったのが、鎖紐《くさりひも》の煙草入であります。根付《ねつけ》とかます[#「かます」に傍点]とが、十文字の鞘で支えられたのだから、ちょうどいいあんばいにひっかかったのではあったけれども、それが大事の槍であったから、槍持の奴《やっこ》は嚇《かっ》としました。槍持の奴と面《かお》を見合せた馬上の侍は、むっ[#「むっ」に傍点]として言わん方なき不快の色を示して通り過ぎたけれど、この槍持奴だけは、根の生えたようにそこへ突立って動きません。
 仁王立ちに突立った槍持奴は、槍の鞘にひっかかった煙草入を取ろうともしないで、そのまま大地に突き立てて、頭から湯気を立ててこの家の二階を睨《にら》み上げています。
 さしも騒がしかったこの店が、その時に水を打ったように静かになりました。店の者が一人も残らず面の色を青くしました。往来の人も歩みをとどめてしまいました。
 そこへ店の中から転り出したのが例の平さんでありました。実は平さん自身が飛び出さない方がよかったのだけれども、この男は正直者でもあり、慌《あわ》て者でもあったから、店の者から何か言われると、慌ててここへ飛び出して来たものです。
 そうして槍持奴の前へ土下座をきって申しわけをすると、槍持奴は雷《かみなり》の割れるような声で、
「このかんぶくろ[#「かんぶくろ」に傍点]はてめえのか」
 平吉は縮み上って、
「はいはい、手前のでございます」
「てめえのなら持って行け」
「はいはい」
「早く持って行け、何でえ、何で手なんぞを出しやがるんだい、この槍へ上って自分の手で取って行きやがれ」
 持って行けと言いながら、槍はそこへ突き立てたままです。
 この時に、前の五六騎づれの侍たちについていた仲間《ちゅうげん》たちが、ほとんど残らず取って返して、ズラリと平吉を取巻きました。
 人に揉まれて来た米友が、聞くともなしに聞いていると、事件の要領はこうです。
 百両の富に当った品川宿の平吉という建具屋が、嬉しまぎれに身近の人を招《よ》んで、角の店の二階で飲んだ揚句《あげく》、連れの一人が、平さん大金持になった上は、こんな安っぽい煙草入はよしてしまいねえと言って、冗談にポンと往来へ抛り出す真似をしたのが、どうしたハズミか本気に手が辷《すべ》って、二階から往来へ飛び出してしまいました。飛び出した煙草入が運悪く、通りかかった十文字の槍の鞘へからみついてしまいました。事件の要領はただそれだけです。事柄はただそれだけだけれど、煙草入のからみついた相手が悪かったから、全く始末のいけないことになってしまいました。
「いけねえ、いけねえ、平さんは鈴喜《すずき》の庭へ引張り込まれてしまった。あすこにはお歴々の方がお微行《しのび》で大勢休んでおいでなさるんだ、なんでもお奉行のお方や、与力の方で、いずれも飛ぶ鳥を落す御威勢のお方なんだそうだ。そのお槍へ平さんの煙草入がケチを附けてしまったものだから、納まりがつかねえ、なんでも平さんは、あのお槍で殺《や》られちまうんだそうだ、あのお槍を持った殿様が、平さんを突き殺しておいて、あとで五人の殿様が試し斬りをなさるんだって言ってましたぜ。もう助かりません、何しろ、あっちが飛ぶ鳥を落すお歴々のお揃いだから、誰も口の出せるものがありゃしませんや、こればっかりはお庄屋様だって、不動院の御前《ごぜん》だって、後へ引いておしまいなさる。ああ平さんがかわいそうだ、平さんがかわいそうだ、こんなことだったら早く私たちが連れて帰りさえすればよかったんだが、ついここで飲み出したのが悪かった。平さん、友達甲斐がねえと恨んじゃいけねえよ、全く友達甲斐がねえんだから、恨まれても仕方がねえけれど、災難にしても、災難があんまり大き過ぎらあ。あれで皆さん、平さんには女房もあれば子供も二人まであるんですよ、おかみさんは今日の富を心待ちにして待っているんでございますよ、まさか百両の一番札が落ちようと思いませんが、もしいくらでも当りさえすれば、子供にああしてやろう、こうしてやろうなんて、出がけに算当《さんとう》を組んで笑いながら切火をきってくれたもんです。それがこんなことになったと言って、どうして私はおかみさんに合わす面《かお》がありましょう、金さん、お前が附いてながら、早く連れて帰ってくれさえすればこんなことになりゃしないと言って、おかみさんに泣かれたら、わたしゃ何と言って言いわけをしましょう。私が友達甲斐がねえから平さんを、あんなことにしてしまった、皆さん、わたしゃ平さんに済まない、平さんのおかみさんに済まない、なんとかして下さいよう」
 こう言っておいおいと泣いているのは、同じ品川から平吉と一緒に連れ立って、今日の富へ来た友達の一人であります。多分、煙草入を手から辷《すべ》らしたのがこの男でしょう。いい男が手放しで泣くのだが、この場合に限って同情の至りで、ほとんど貰い泣きをしたがるものばかりです。しかし、こう言って泣きつかれても今更、誰がどうしてやろうと言うこともできません。
 宇治山田の米友が、うなり出したのはこの時です。

 米友が鈴喜の家の裏手の竹藪《たけやぶ》の中をうろついていたのは、それから間もないことでした。
 庄屋様に行っても、竜泉寺の住職を煩《わずら》わしても、お詫《わ》びの叶《かな》わないと言われるのを米友が、救い出そうとするつもりか知らん。
 例の不動尊の画像は刀でも差すように、腰へしっかと挿《はさ》んで、藪の中にある大木へ攀上《よじのぼ》りました。その大木の上から見下ろすと、鈴喜の家の庭から、開け放した間取りまでが手に取るようです。
 庭は思いの外ひっそりとしていたが、その一方の隅の楓《かえで》の木の下に、後ろ手に結《ゆわ》かれているのは建具屋の平吉という人らしい。座敷の上には、お歴々の遠乗りの連中が食事の最中と見えて、誰も平吉を顧みる者がない。槍持の奴《やっこ》の姿も見えなければ、仲間連中も一人としてその番をしている者はありません。ああして木の根へ括《くく》っておけば、あえて番人を附ける必要はなかろうけれど、うっかりしているのは、問題の十文字の九尺柄の槍です。あれほど大事な槍が、ここでは無雑作《むぞうさ》にその楓の木へ、横の方から立てかけられてあるだけです。大木の上から事の体《てい》を一通り見下ろした米友は、その無雑作に立てかけられた十文字の九尺柄の槍を見ると、むらむらと悪戯心《いたずらごころ》が起りました。
 問題の中心はあの男でなくて、あの槍であると思いました。それにからまった鎖紐の煙草入なぞは、もとより物の数ではないが、槍はたしかにあの連中のうちの表道具である。この場合、中へ飛び込んで、あの男を助けて来るのは容易なことではないが、あの槍を取り上げてしまうのは、さしたる難事ではないと気のついたのが、米友の悪戯心をそそったわけです。それをするには、ここから物置の屋根へ飛びうつって、母屋《おもや》の庇《ひさし》を渡り、そこに腹這《はらば》って手を延ばしさえすれば、楽々と槍を捲き上げることができる――と気がついてみると、それは面白い面白い、早く捲き上げて下さいと、槍の方で米友を手招ぎするように見え出したから堪りません。極めて身軽に米友は、大木の上から物置の屋根へ飛び下りてしまいました。
 飛び下りた途端に帯をゆすぶって、腰に差していた不動尊の画像を背中へ廻し、そのままズルズルと走って母屋の庇へ出ました。庭では牡鶏《おんどり》が一羽、小首を傾《かし》げて物珍しそうに、米友の挙動をながめているだけです。
 そこで米友は庇の上へ腹這いになって下をのぞいて見ると、食事を了《おわ》ったお歴々の連中は、しきりに比翼塚《ひよくづか》の噂をしているらしい。結《ゆわ》かれてい
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