ないことが哀れです。誰かしかるべき人に預けたのがよかろうと、それは幾度も思案にのぼらないではありません。けれども、こうなってみると、預けた先も心配になるし、預けるというそのことも心配になります。たとえば道庵先生とか、盲法師の弁信とかいうような者に、事情を打明けて頼めば、いやとは言うまいけれど、米友の気象では、そう言って頼むのが癪にさわります。なんだか自分が、この一幅の画像に怖れをなして、逃げ隠れでもするように見られるのが癪にさわらない限りもない。それで米友は、しかるべき相談相手を求めようとする気にもならないのであります。自分で自分の心が済むように始末しなければ、男の一分が立たないように思われてなりません。ですから、土にかじりついても、この画像だけは自分で始末をしようとして、煩悶《はんもん》しながら歩いているのです。
 ところが、これほど煩悶している米友の眼の前へ、ちらちらと不動様のお姿が現われます。今までは夢にのみ現われた不動様が、米友がこうして煩悶していると、ありありとその怖い面を向けて米友を睨《にら》みつけるのだから、米友は焦《じ》れるばかりです。いったい、不動尊という奴がなんの恨
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