くような走り方です。眼前にかなり広い沼があって、その沼の上を一文字に飛んではいるが、岸に着くと、はたと翼を納めて休《やす》らわんとする気合の飛び方でありました。これはまさしく鎌宝蔵院でいう「飛乱《ひらん》」の型であります。
 一方の見物が、あっ! と飛び退いた時には、宇治山田の米友はクルリと背を向けて、また前の方角へ真一文字に走り出しました。前には中空を飛ぶ鳥のような姿勢であったが、今度は形を下段《げだん》に沈めて、槍を一尺ほどにつめて走るのが、さながら猛獣の進むが如き勢いであります。
 それで一方の見物がまた、はっと飛び散ったけれども米友は、素早く身を返して元のところに突立って槍を中取りに持ち、前へ突き出しかたと思うと、柄を返してはった[#「はった」に傍点]と物を打つような形をしました。左から打ち込み、右から打ち込み、さながら棒と槍とを併せて使うように、九尺の十文字を両様に使いました。
 それが終ると、十文字の長剣だけは遊ばせて、横手の鎌だけをヒラリヒラリと胡蝶《こちょう》のように舞わしています。十文字を逆手《さかて》に持って、上から突き伏せる形をしてみるのかと思えば、躍り上って空飛ぶ鳥を打って落すように変化しました。穂先を三様に使い分け、槍の柄を二様に使い分けるのみならず、石突を返して無二無三に突いて引くかと見れば、飛び違いざまに敵の小手へ引鎌《ひきがま》をかけて滝落しの形がきまります。
 こうして宇治山田の米友は、たった一人で無茶苦茶に十文字の九尺柄をおもちゃにしています。おもちゃにしているわけではないが、見物の者にはそうとしか見えないのであります。しかし、そのおもちゃの扱いぶりの熟練と軽妙とを極めた捌《さば》きは、無心で見ている見物をも酔わせるほどの働きでありました。
 自棄《やけ》にしても気狂《きちが》いにしても、これは面白い観物《みもの》だと思わないわけにはゆきません。たしかに面白いには面白いが、あぶないこともまたあぶない。だからうっかり、いよいよ近寄ることはできません。怒気紛々として掴みかかろうとしている下郎たちも、どうにもこうにも米友に近寄る隙さえ見出すことができません。ひとりで無茶苦茶に使っている槍が傍へ寄れば、きっと物を言うにちがいない。物を言えば必ず田楽刺《でんがくざ》しに刺されてしまいそうである。思いがけない気狂いだと思いました。誰もまだ、ほんとうに米友が槍を心得ているのだと気のついたものはありません。自棄に振り廻している槍の間から、本格と変則とが米友流に随処にころがり出すその妙処を、見て取ってくれる人のないのが気の毒です。気の毒であるのみならず、この時に、どこからともなく泥草鞋《どろわらじ》が片一方、米友の面上を望んで降って来ました。その泥草鞋は身を沈めて避けたけれども、それを合図に石や、木や、竹切れが、雨霰《あめあられ》と降って来ました。
 それと見るや米友は横っ飛びに飛んで、三仏堂の縁の上へ飛び上ったかと思うと、扉を押して堂の中へ身を隠し、素早く中から扉を閉して閂《かんぬき》を締めました。
 そこで、かの槍持奴をはじめ、仲間どもは扉の前まで押寄せたけれども、さて、それを踏み破って、一歩を堂の中へ踏み入れようということには、躊躇《ちゅうちょ》しなければなりません。踏み込んだが最後、中に待ち構えた気狂いのために、田楽刺しにされることは請合いと思わなければなりません。そのほかの群集は徒《いたず》らに三仏堂のまわりを取巻いて、わいわい噪《さわ》いでいるばかりです。
 ややあって、高い欄間《らんま》の間から面《かお》を現わした宇治山田の米友が、群集を見下ろしてこう言いました。
「おいらは宇治山田の米友といって、生れは伊勢の国の拝田村の者だが、わけがあって江戸へ出て来たには出て来たが、江戸に来ても根っから詰まらねえや、時候のせいかこのごろは、気がいらいらしてたまらねえ、右を向いても、左を向いても、癪《しゃく》にさわる世の中だ、いったい、おいらのような人間は、見るもの、聞くものが癪にさわるように出来てるんだと、このごろつくづくそう思った、だから、死んでしまった方がいいんだろう、命なんぞは惜しかあねえや、この世の中に未練なんぞはありゃしねえんだ、おいらは気が短けえから、いやになると自分の命までがいやになってたまらねえ、親兄弟があるわけじゃなし、女房子供があるわけでもねえから、どうでもなる命だ、命のもてあましだ、そうかと言って、川へ飛んだり、首を縊《くく》ったりするのも気が利《き》かねえからな、ちょうどいいところだ、あの建具屋の若いのに身代りになってやろうと思って、こんな悪戯《いたずら》をやり出したんだ、どうだい、あの若いのにはおかみさんもあれば、子供もあるという話だから、おいらは今いう通り、そんな厄介者は一人もね
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