る平吉はと見れば、死人のようになって、すすり泣きをしているのがかわいそうです。
米友は右の手を差伸べると、楓に立てかけた槍をスルスルと引き上げました。同じ木の根に結かれていた平吉すらもそれを知らないくらいだから、誰あって感づいた者はありません。ただ、屋根の上を歩いていたブチ猫がこの体を見て、急に両足を揃え、背骨を高くして、威嚇《いかく》の姿勢を示したのが、米友を苦笑いさせただけのものでした。
仕済《しす》ましたりという面をして米友は、その槍を小脇にかい込むや、また以前の物置の上へ舞い戻って、そこから塀を伝わって、屋根の外へ出てしまいました。
それからいくらも経たない後のこと、いざという時に、楓の木へ立てかけた槍がありません。槍持の奴は青くなり、誰にたずねても要領を得たのはない。平吉は打っても叩かれても知ろうはずがない。どうしても行方不明とあれば盗まれたのだ。盗まれたのは煙草入をからまれたよりは少し痛みが重い。ことに奉行であるか、与力であるか知らないが、そのお歴々が五六騎集まっている眼の前で盗まれたとすれば、いよいよ痛みが重い。
こうして鈴喜《すずき》の家の内外では、槍の紛失から青くなって騒いでいる時分に、外から一つの報告がありました。
不動の境内《けいだい》で、見慣れない小男が、しきりに十文字の槍をおもちゃにしているということです。槍をおもちゃにしているという報告は、穏かならぬ知らせです。鈴喜の家の内外を探しあぐねた連中が、ソレと言って我れ先に飛び出しました。
これより先、槍を荷《にな》った宇治山田の米友は、どういう了見か知らないが、不動の境内の人混みの中へ取って返しました。十文字の槍は肩にしているが、不動の画像は腰にたば[#「たば」に傍点]さんでいます。
いったい、この時分の米友の了見方というものは、米友自身にもよくわかりません。近来のことは世間にも、米友の周囲にも、あまり変兆《へんちょう》が多いから、この短気な正直者は精神に異状と言わないまでも、多少|自暴気味《やけぎみ》になっているかも知れません。槍を担ぎ出して、人目に触れない方角はいくらもあるのに、好んで人出の多い不動の境内へ取って返して、多くの人の注目に頓着せず、悠々と歩いて行くはあまりといえば非常識です。
「おーい、小僧待て!」
かの槍持奴《やりもちやっこ》をはじめ仲間ども、そのあとには鈴喜の家の主人雇人までがくっついて、ちょうど三仏堂の前まで来た時、その声を聞いて米友が、屹《きっ》と後ろを振返りました。
すわ、何事! と思ったのは、前から事のなりゆきを知っているものばかりではありません。
待っていた! と言わぬばかりに宇治山田の米友は、九尺柄の十文字の槍を地に突き立て、三仏堂の前に蟠《わだかま》りました。その体《てい》を見ると、槍持の奴の癇癪《かんしゃく》が一時に破裂して、
「野郎、その槍はどこから持ってきた」
「鈴喜んちの庭から持って来た」
米友はあえて驚かない。
「野郎、誰にことわって持って来た」
「屋根の上の猫と、庭にいた鶏にことわって持って来た」
「野郎、野郎」
槍持の奴は、にぎりこぶしを両方から握り固めました。
「何が野郎だ」
米友は短い両の足を、程よく踏張《ふんば》りました。
「よこしゃがれ」
槍持の奴は、米友をけし[#「けし」に傍点]飛ばそうとかかると、
「いやだい!」
身体をこころもち反《そ》らせて、かかって来た槍持を左の手で、ひょいと横の方へ突きました。そこで槍持の奴が、はずみを食って脆《もろ》くも右の方へゴロゴロと転がったから、見ているものが驚きました。
「おや」
見ている者が面《かお》の色を変えた時に、宇治山田の米友が地団駄を踏んで、
「ただはやれねえやい、この槍が欲しけりゃ、代りの品を持って来いやい」
こう言って米友は、三仏堂の縁の前へ飛び上りました。
驚くべきことには、その途端に十文字の槍の鞘《さや》を払ってしまったものです。それはハズミで鞘が取れたのではなく、米友自身が心得て鞘を払った上に、当人がその鞘を丁寧に懐中《ふところ》へ入れてしまったから、間違いという余地はありません。槍の中身は、さすがによく手入れが届いて明晃々《めいこうこう》たる長剣五寸横手四寸の業物《わざもの》です。
これは誰も気狂《きちが》いだと思いました。その気狂いが槍の鞘を払って、ともかくも寄らば突かんと構えたのだから、命知らずでも、これはうっかりと近寄れません。
たとえハズミにしろ、槍持の奴を取って投げた今の早業からして見ると、かりそめに構えた槍の姿勢というものは、無茶に打ってかかるの隙が見出せないことが、不思議といえば不思議です。剣呑《けんのん》といえば剣呑です。
宇治山田の米友がいま構えている姿勢というのは、心あってかな
前へ
次へ
全47ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング