たから、これも取って参りました、これを召上ってお待ち下さいませ、ただいま御飯を炊《た》いて差上げますから、松茸の即席料理を、わたくしの手でこしらえて上げようと存じます、温かい御酒と、温かい御飯を差上げたいと思いまして」
 酒を手に取らないうちに、竜之助は酔わされた心持です。口をつけると上燗《じょうかん》に出来上っている酒の香りが、五臓六腑に沁《し》み渡ります。
「ああ」
と言って咽喉《のど》を鳴らしました。温かい酒と、温かい飯の誘惑が、己《おの》れを物狂わしくするのを制することができません。
 土瓶の中を立てつづけに飲みました。義理も人情もなく飲みつくしてしまいました。
 その間にお徳は、更に温かい飯と、新しい松茸の料理にかかるべく焚火を加えて、その火加減をながめています。それによって見ると、飯を焚いているのではなく蒸しているものらしい。よく山の旅に慣れているものがするように、湿気のある土地に穴を掘って木の葉を敷き、それに米を入れてまた木の葉と土とかぶせて、上で焚火するという仕組みでやっているものらしい。松茸の料理というのも、多分そうしてこしらえるのでしょう。
 温かい酒と、温かい飯とに瞑眩《めいげん》した竜之助は、久しく潜んでいた腥《なまぐさ》い血が、すっと脳天へ上って行くのを覚えます。この時に、むらむらと人が斬りたくなりました。眼に触るる人を虐《しいた》げて、その血を貪《むさぼ》ってやりたい心持が、ようやく首を持ち上げてみると、刀のないことが、もどかしくてたまりません。腰をさぐってみたけれど刀がありません。
 ぜひなくその心をじっと抑えて、また弱々しい女郎花《おみなえし》を虐げて横になって、かすかに眼を開くと、焚火にかがやくお徳の血色というものが、張り切れるほどに豊満な肉を包んでいました。
 百カ日の参籠ということによって、辛《かろ》うじて恵まれた肉眼の微光は、その間、やむことを得ずしてさせられた精進潔斎《しょうじんけっさい》の賜物《たまもの》であるとわかっているならば、再び人間の肉と血を見ることによって、もとの無明《むみょう》の闇に帰りたくはなかろう。肉と血を見ないことによって光が恵まれ、肉と血を見ることによって光が奪われるということなら、人間というものの生涯も、厄介至極なものではありませんか。



底本:「大菩薩峠6」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年2月22日第1刷発行
底本の親本:「大菩薩峠 四」筑摩書房
   1976(昭和51)年6月20日初版発行
※「小金ケ原」「八ケ岳」の「ケ」を小書きしない扱いは、底本通りにしました。 
入力:(株)モモ
校正:原田頌子
2002年11月10日作成
2003年5月11日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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