一本の下をグルグルと廻りはじめたが、刀の小柄《こづか》を抜き取りその松の木に、ビシリと突き立てて行ってしまいました。
兵馬の立去ったあとで、その松の木の傍へ寄って見て、はじめて小柄の突き立てられてあることを知り、忠作はそれを無雑作に引抜いて、松の木には目じるしの疵《きず》をつけ、またも兵馬のあとをつけて行きます。
兵馬は朴歯《ほおば》の下駄かなにかを穿《は》いている。忠作は草鞋《わらじ》の御用聞。両人ともに歩きも歩いたり、芝の三田から本所の相生町まで、一息に歩いてしまいました。
さて、相生町へ来ると兵馬が例の老女の家へ入ったのを、忠作はたしかに見届けました。
ここまで来てみると、いったい、この家は何者の住居であるかということを突き留めて帰らねばなりません。忠作は屋敷の周囲を二三度まわりました。
「こんにちは、まだ御用はございませんか」
裏口へ廻って、こんな声色《こわいろ》を使ってみると、
「三河屋の小僧さん?」
「はい」
「ちょいとここへ来て手を貸して下さいな」
「へえ、承知致しました」
呼び込まれたのを幸いに、潜《くぐ》りから長屋へ入り、
「こんにちは」
「小僧さん、後生ですからここへ来て手を貸して下さい」
薄暗い中でしきりに女の声。
「どちらでございます」
「かまわないから早く来て下さいよ」
「こちらから上ってもよろしうございますか」
「どこからでもよいから、早く来て手を貸して下さい」
流し元のあたりで頻《しき》りに呼ぶものだから、忠作は大急ぎで行って見ると、一人の女中が桝《ます》を膝の下に組みしいて、天下分け目のような騒ぎをしているところです。桝落しをこしらえて鼠を伏せるには伏せたが、どうしていいか始末に困っているところらしい。
「鼠が捕れましたね」
「小僧さん、早く、どうかして下さいな」
忠作は上手に桝を明けて鼠をギュウと捉《つか》まえて、地面へ置くと、足をあげてそれを踏み殺してしまいました。女中はホッと息をついて、
「おや、いつもの小僧さんと違いますね」
と言って忠作の面《かお》を見ました。
「どうか御贔屓《ごひいき》を願います」
忠作は頭を下げました。
そこへ、廊下を渡って、また一人の女の人が、
「お福さん」
と呼ばれて、鼠を押えた女中が、
「はい」
と答えました。
「後生ですから、これへ汲みたてのお冷水《ひや》をいっぱい頂戴」
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