にそこへ突立って動きません。
 仁王立ちに突立った槍持奴は、槍の鞘にひっかかった煙草入を取ろうともしないで、そのまま大地に突き立てて、頭から湯気を立ててこの家の二階を睨《にら》み上げています。
 さしも騒がしかったこの店が、その時に水を打ったように静かになりました。店の者が一人も残らず面の色を青くしました。往来の人も歩みをとどめてしまいました。
 そこへ店の中から転り出したのが例の平さんでありました。実は平さん自身が飛び出さない方がよかったのだけれども、この男は正直者でもあり、慌《あわ》て者でもあったから、店の者から何か言われると、慌ててここへ飛び出して来たものです。
 そうして槍持奴の前へ土下座をきって申しわけをすると、槍持奴は雷《かみなり》の割れるような声で、
「このかんぶくろ[#「かんぶくろ」に傍点]はてめえのか」
 平吉は縮み上って、
「はいはい、手前のでございます」
「てめえのなら持って行け」
「はいはい」
「早く持って行け、何でえ、何で手なんぞを出しやがるんだい、この槍へ上って自分の手で取って行きやがれ」
 持って行けと言いながら、槍はそこへ突き立てたままです。
 この時に、前の五六騎づれの侍たちについていた仲間《ちゅうげん》たちが、ほとんど残らず取って返して、ズラリと平吉を取巻きました。
 人に揉まれて来た米友が、聞くともなしに聞いていると、事件の要領はこうです。
 百両の富に当った品川宿の平吉という建具屋が、嬉しまぎれに身近の人を招《よ》んで、角の店の二階で飲んだ揚句《あげく》、連れの一人が、平さん大金持になった上は、こんな安っぽい煙草入はよしてしまいねえと言って、冗談にポンと往来へ抛り出す真似をしたのが、どうしたハズミか本気に手が辷《すべ》って、二階から往来へ飛び出してしまいました。飛び出した煙草入が運悪く、通りかかった十文字の槍の鞘へからみついてしまいました。事件の要領はただそれだけです。事柄はただそれだけだけれど、煙草入のからみついた相手が悪かったから、全く始末のいけないことになってしまいました。
「いけねえ、いけねえ、平さんは鈴喜《すずき》の庭へ引張り込まれてしまった。あすこにはお歴々の方がお微行《しのび》で大勢休んでおいでなさるんだ、なんでもお奉行のお方や、与力の方で、いずれも飛ぶ鳥を落す御威勢のお方なんだそうだ。そのお槍へ平さんの煙草入が
前へ 次へ
全94ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング