、名のりかけ、名のりかけ、手取りにせんと追うて行く……三保谷《みほのや》が着たりける、兜《かぶと》の錣《しころ》を取りはずし、取りはずし、二三度逃げのびたれども、思う敵なれば遁《のが》さじと、飛びかかり兜をおっとり、えいやと引くほどに……」
[#ここで字下げ終わり]
面白がって道庵は「景清」の謡《うたい》をおっぱじめました。
「先生、謡どころじゃありません、やってますぜ、やってますぜ、斬合いが始まってるんだから、早くこっちへ逃げておいでなさいまし」
ようやく小さな声で、これだけのことを言って、最後の力で引張り込もうとしたが、この場合において三保谷の方が、役者が一枚上であったから始末にゆきません。腕から辷《すべ》って羽織の裾に取りつき、錣引《しころび》きが草摺引《くさずりび》きになったけれども、このたびの朝比奈もまた、あまりに意気地のない朝比奈で、五郎|時致《ときむね》は、またあんまりふざけ[#「ふざけ」に傍点]過ぎた五郎時致でありました。
「先生、怪我があっても知りませんぜ、しっかりしなくっちゃいけません」
せっかく、飛び出した男が持て余している時に、柳橋の角から、星明りの闇夜《やみよ》に現われた人影が一つ、蹌々踉々《そうそうろうろう》として此方《こなた》に向いて歩いて来ます。その手にしている秋の尾花のような白刃が、星明りの闇にもきらめいて、足許のあぶないのは、たしかに重い手傷を負うているものと見られます。それと見た男は道庵を突き飛ばして、あわてて第六天の社内へ逃げ込みました。突き飛ばされた道庵は、あやうくそれを残して踏み直り、これも千鳥足。向うから歩いて来る千鳥足と、こちらから歩いて行く千鳥足とは、同じ足許があぶないながら、たしかに性質が違います。その辺にいっこう御夢中な道庵先生の危ないこと。
暗いところで、よくわからないが、右の手に刀をぶらさげたままで、左の手を以て、右の肩の上をしっかりと押えて、真蒼《まっさお》な面《かお》をしてフラリフラリと歩いて来るのは、年の頃はまだ若い、袴を着けたさむらいであります。
出合頭《であいがしら》に、それとぶっつかった道庵は、
「やア、危ねえ!」
この時ひとたまりもなく、後ろへひっくり返ってしまいました。けれども、それは、一刀の下にきりふせられたのではありません。鉢合せをして打倒《ぶったお》れたまでのことで、道庵が痛い腰を擦《さす》って起き直ろうとした時に、先方のさむらいも同じく後ろに打倒れていることを認めました。しかも、酔っぱらっている道庵は、ともかくも起き直る余裕があるのに、向うへ打倒れたさむらいは、起き上る気力がありません。
「気をつけてもらいたいね」
道庵はこう言って起き上り、倒れた先方の人のところへ行って見ると、その人は虫の息です。道庵は、よくそんなところへ出会《でっくわ》せる男で、いつぞやも伊勢参りをした時に、やはり、こんなような鉢合せから始まって、宇治山田の米友という珍物を掘り出したのは、この先生の手柄であります。
「そーら見ろ、悪いいたずらをすると罰が当るぞよ、世界の立て直しだぞよ」
と言いながら、虫の息で倒れている人の傍へ寄って見て、
「やア、やられたな、右の肩先をバラリズンとやられたな、手傷を押えて、フラリフラリとここまで、やって来たところを、拙者と鉢合せをしたために手傷が裂けて、こうなったのはまことにお気の毒だ、まあ待ち給え、拙者がお手のもので、ひとつ手当をして進ぜるから」
道庵は手負《ておい》を抱《いだ》き起して、一方には自分の羽織を脱いで、その肩先の創口《きずぐち》をしっかりと捲き、血留めをしておいて、さて応急の手当を試みようとしたけれど、遺憾ながら、それはもう手後れでありました。打倒れた途端に、斬られた右の肩先から、ほとんど全身の血を土に飲ませてしまい、道庵先生の羽織一枚は、グチャグチャになってしまい、みるみる、そのさむらいの面《かお》は蝋のように変じて、道庵に抱えられながら、虫の息が、ついに断末魔の息となり、やがて眠るが如く縡切《ことき》れてしまいました。
ここで道庵が人を呼ぶか、どうかすればよかったのだが、この時分は、酔眼いよいよ朦朧《もうろう》として、意地にも我慢にも眠くなって堪らないようでした。斬られたさむらいの屍骸を抱え込んで、どう始末しようという当てがあるでもなく、朦朧たる酔眼を、幾度も幾度もみはって、
「扁鵲《へんじゃく》の言いけらく、よく死すべきものを活かすにあらず、よく活くべきものを活かしむるなり」
こんなことを言いながらも、多少は正気があると見えて、有らん限りの力を入れて、その死骸をせめて往来の片端へでも運んでやろうと、努力を試みているもののようです。しかしながら、それは蟻が一生懸命で生殺《なまごろ》しの虻《あぶ》に取りついているように、ズルズルと引張っては、またはなしてしまい、また引張っては離れ、離れては引張り、引張っているうちに自分の腰が砕け、砕けた腰がまた箝《はま》ると、揉手《もみで》をして取りつき、右が入って抱き込んだかと思うと、勝手が悪いと見えて捲き直してみたり、諸差《もろざ》しになったから、もうこっちのものと思っている途端に、また自分の腰がグタグタと砕けて、力負けをしてしまったり、本人は一生懸命のつもりだろうが外目《よそめ》で見れば、屍骸を玩具《おもちゃ》にして四十八手のうらおもてを稽古しているようで、見られたものではありません。
けれども、この独《ひと》り角力《ずもう》も、もうヘトヘトに疲れきって道庵は、屍骸の腋《わき》の下へ頭を突込んだかと思うと、やがてグウグウ鼾《いびき》を立てて寝込んでしまいました。
四
一方、駒井甚三郎は、船宿の表の戸に突き当った物音を聞くと、沈着な人に似合わず、立ち上って、それを諫止《かんし》しようとする寅吉に提灯をつけさせ、二階の梯子を下りて、表口の戸をあけて外へ出ました。戸をあけて一歩外へ出ると、紛《ぷん》として血の香いが鼻を撲《う》ちます。
甚三郎が提灯を突きつけて見ると、つい土台石の下にのめ[#「のめ」に傍点]っている一つの血腥《ちなまぐさ》い死骸があります。長い刀は一間ばかり前へ投げ出しているのに、左の手では手拭を当て、額をしっかりと押えて、その押えた手拭の下から血が滲《にじ》み出して面《おもて》を染めているから、その人相をさえしかと認めることはできないが、まさしく相当のさむらいであります。
駒井甚三郎は、傍へ差寄って検《しら》べて見ると、すーっと額《ひたい》から眉間《みけん》まで一太刀に引かれて、あっと言いながら、それを片手で押えて夢中になって、ここまで、よろめいて来たものと見えます。よろめいて来て、人の家の戸口と知って、刀を抛《ほう》り出して、その手で戸を二つ三つ叩いたのが最後で、ここに打倒れて、そのままになったものに相違ないと思われます。
もはや、どうしようにも手当の余地はないと見た駒井甚三郎は、関《かかわ》り合《あ》いを怖れてそのまま戸を閉じて引込むかと思うと、そうでなく、提灯を持って、スタスタと柳橋の方へ進んで行きました。寅吉も、駒井が出て行くのに自分も隠れていられないから、甚三郎のあとを追おうとすると、
「寅吉、お前は危ないから出て来るな」
「殿様こそ、お危のうございますよ」
「出て来てはいかん、閾《しきい》より出てはならぬと言うに」
甚三郎は寅吉を抑えて、表へ出さないようにして、自分だけは提灯をさげて橋の方へ出直しました。
閾の中にいて、戸の間から面《かお》だけを出した寅吉は、安からぬ色をして駒井甚三郎の後ろ姿を見送っているが、その心配のうちにも、また安んずるところがあるのは、それはこの殿様が、もとより武芸にかけて何一つおろそかはないが、ことに鉄砲にかけては、海内無双《かいだいむそう》であるということを知っているからであります。そうして、懐中には、いつもその時代最新式の、外国から渡った短銃を離したことのないのも知っているからであります。
駒井甚三郎は、向うへ歩んで行きながら提灯《ちょうちん》の光で地面を照して、気をつけて見ると血汐《ちしお》のあとが、ぽたりぽたりと筋を引いているのであります。斬合いは、たしかに柳橋の上で起っている。どちらがどうともわからないが、その人数は一人ではなく、たしか三人以上の斬合いになっている。もし三人とすれば、必ずや一方は一人、一方は二人であるに相違ない。自分のいるところの門口へ来て倒れたのは、そのうちのどちらか知らないが、まだ二人はたしかに橋の上に残っているはずである。負傷して橋の上に残っていなければ、どちらへか逃げて行ったものであろう。逃げて行ったとすれば、その二人で、この一人を討って立退いたものであろうが、それにしては卑怯である。喧嘩か、意趣か、辻斬か知らないが、二人で一人を斬って、その最期も見届けずに逃げてしまうのは腰抜けである。それはあるべからざることだから、多分、その二人も傷ついて、そこらに斃《たお》れているだろう。駒井甚三郎は、そう思ったから、現場を見届けるために橋の上まで来て、提灯を差し出すと、果せる哉《かな》、橋の欄干にしがみ[#「しがみ」に傍点]ついている一個の人影を認めることができました。
駒井甚三郎は、その橋の欄干にしがみ[#「しがみ」に傍点]ついている人影に提灯を差しつけて見ると、それもしかるべき、若いさむらいでありました。
前のは、ともかくも向う傷であったが、これは斬られて後に欄干にしがみ[#「しがみ」に傍点]ついたのか、逃げ場を失うて欄干にしがみ[#「しがみ」に傍点]ついたところをやられたのか、後《うし》ろ袈裟《げさ》に、ザックリと思う壺に浴びせられて、二言《にごん》ともなく息が絶えている形であります。その死物狂いで欄干へとりついたのが、木の枝にかじりついた蝉《せみ》のぬけ殻と同じような形であります。
駒井は篤《とく》と提灯の光で、それを見届けた上に、なお徐《おもむ》ろに橋の上を進んで行くのであります。その進んで行く橋板の上はベットリと血だらけですから、ややもすればそれに辷《すべ》って、足を浚《さら》われようとする間を選んで徐《しず》かに歩きました。
左には両国橋が長蛇の如く蜿蜒《えんえん》としている。右手は平右衛門町と浅草御門までの間の淋しい河岸で、天地は深々《しんしん》として、神田川も、大川も、水音さえ眠るの時でありました。
「駒井の殿様」
堪り兼ねたと見えて寅吉が、あとを慕うて来ました。
「お危のうございますよ」
駒井甚三郎は提灯を差し上げて、寅吉の方を照しましたけれど、その時は、もう来るなと言ってとめはしません。
「あッ」
と言って、寅吉は、その橋板に流されている血汐に辷りました。お危のうございますという口の下から、自分が危なく打倒れようとして橋の欄干に取縋《とりすが》った、ついその隣は、例のしがみ[#「しがみ」に傍点]ついた屍骸でしたから、慄《ふる》え上って飛び退きました。
「駒井の殿様、あんまり進み過ぎて、お怪我のないように」
寅吉は橋を渡りきることができないでいたが、駒井甚三郎は頓着なく、橋の向うの板留まで歩いて行きました。
そこで、ゆくりなく拾い上げたのは一口《ひとふり》の刀であります。それを駒井が提灯の光で見ている時、今まで眠れるもののように静かであった大川の水音が、遽《にわ》かにざわついてきました。潮が上げて来たものでもなく、雨が降り出したわけでもなく、水の瀬が開ける音がしたのは一隻の端舟《はしけ》が、櫓《ろ》の音も忍びやかに両国橋の下を潜って、神田川へ乗り込み、この辺の河岸《かし》に舟を着けようとしているものらしい。拾い上げた刀を見ていた駒井は、早くもその舟を認めました。刀を照らした提灯の光で、今時分、河岸へつけようとした怪しの舟の何者であって、どこから来たものであるかを確めようとしました。
それを怪しいと見たのはおたがいのことで、ここまで乗りつけて来た小舟の船夫《せんどう》はまた、櫓を押すことを休めて、橋上を
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