久しいことになりましたね、今日は、あなたがおいでになるということですから、こうして待っておりました。あなたが恋しいのではございません、郁太郎がかわいそうですからね。だんだん寒くなってゆくのに、あの子は、綿の入った着物一つ着られまいかと思うと、それが心配で、眠れません、どうぞ、あなた、これを郁太郎に持って行って上げてくださいまし。あなたとの間のことなんぞは、どうでもよいではございませんか、恨みを言えばおたがいに際限がありませんからね。もう少しお待ち下さいまし、今、わたくしがこれを縫い上げてしまいますまで」
「うーん」
「もし、あなた、どうなさいました」
前のは夢の声、これは現実の言葉であります。夢とうつつとの境はよくわかるけれども、女の声には変りがありません。してまた、竜之助の心では、現実の女と、夢の女とを、区別することができません。夢にうなされた自分を呼び起している女の声を、やはり夢で見た同じ女とのみ思うよりほかはありません。
板橋駅の、とある旅籠屋の一室に、夢に見たと同じような行燈の下に縫物をしているのは、どこやらに婀娜《あだ》なところのある女房風の女でありました。けれどもその縫っているのは、郁太郎の着物ではありません。乱れた髪かたちを直してから、自分の着物の綻《ほころ》びを繕《つくろ》っているものらしい。
夢にうなされた人の声に驚いた女の人は、針の手を止めて暗い行燈の光で、うなされている人の面《おもて》をさしのぞくと、
「まだ起きておられたのか」
夢から醒《さ》めて、かえって現実の人の醒めているのを不思議がるようです。
「はい、まだ起きてお仕事をしておりました」
女の返事は、まことに、しとやかな返事であります。
「こんな夜更けまで、誰の着物を縫っているのだ」
「いいえ、誰の着物でもございませぬ」
と言いながら、女は再び針の手を運ばせて、
「たいそう夢に、うなされておいでのようでございました」
「ああ、妙な夢を見た」
「怖い夢でございましたか」
「怖いというほどの夢でもないが、見ている間は夢とうつつがよくわからなかったが、醒めてみると、やっぱり夢の通りだ」
竜之助の言うことは、まだ夢とうつつの境に彷徨《さまよ》うているもののようです。
再び夢路に迷い込んだ机竜之助は、またも旅中の人であります。行手を急ぐ一挺の駕籠に附添うて、いずこともなく走り行く己《おの》れを発見しました。
行手を急ぎながらも、心にかかるのは今宵の宿です。昨夕《ゆうべ》は板橋の宿にホッと仮寝の息を休めたけれども、今宵の宿が覚束《おぼつか》ない。どこまで行って、どこへこの女を泊めていいか、それが心にかかる。
まもなく、一つのやや大きな宿駅を通りかかりました。
「ここはどこだ」
たずねてみると、
「八王子の宿《しゅく》でございます」
返事をするものがあったから、不思議に思いました。板橋は中仙道の親宿。八王子は、それとは、方面を変えた甲州街道の一駅であります。昨夜、板橋を出ていつのまに八王子へ来てしまったろうと、訝《いぶか》しさに堪えられません。しかしながら駕籠はいよいよ急ぎます。暫くして行手に山岳の重畳《ちょうじょう》するのを認めました。
「あれは?」
と尋ねると、
「小仏峠《こぼとけとうげ》でございます」
果して甲州街道へ来てしまった。しかし、よく考えてみると甲州街道へ来るのがその目的であったようです。
雲の棚曳《たなび》いている小仏峠の下を見ると、道の両側に宿場の形をなした人家があります。両側の家の前には、水のきれいな小流れが、ちょろちょろと走っています。
「ここは?」
「浅川宿でございます」
と答えた途端に、急いでいた駕籠がピタと止まりました。
駕籠の止まったところを見ると、この宿場としては目立って大きな一軒の旅籠屋《はたごや》の軒下であります。それは昨夜と同じように、表の戸はすっかり締めきってあるのに、掛行燈だけが、かんかんと明るく、昨夕「若葉屋」と書いてあったところに、今宵は「こなや」と仮名文字《かなもじ》で記されてありました。
駕籠《かご》はと見れば軒下に置放しにされて、駕籠屋は影も形も見えません。
そこで竜之助は、その家の戸をハタハタと叩きました。
「どなたでございます」
中から返事がありました。
「浅川宿のこなやというのは当家か」
竜之助は念を押してたずねると、
「いいえ、宅はこなやではございません、花屋でございます」
という二度目の返事です。
そこで竜之助が、はて、と思いました。表の掛行燈にはまさしく「こなや」と書いてあるのに、中の人は「こなや」ではない、「はなや」だという。行燈を見直して、更にたずね直してみなければなりません。
「ここは甲州街道の浅川宿であろうな」
「はい、小仏へ二里、八王子へ二里半の、浅川宿の小名路《こなじ》でございます」
「それならば、行燈に書いてあるこなや[#「こなや」に傍点]が間違いないのだろう」
「いいえ、こなや[#「こなや」に傍点]ではございません、小名路の花屋でございます。いったい、どちらからおいでになりました」
「江戸の駒込から来た」
「駒込はどちら様で」
「以前、当家の養女であったという、お若という人を連れて来た」
「まあ、お若さんがおいでなすったそうですよ」
家の中が、さざめき渡りました。そこで、はじめて中から戸がガラリとあくと、立っている女は透きとおるほど鮮《あざや》かな着物を着ています。
「よく、おいでになりました、さきから、こうして、明りだけは、かんかんと点《つ》けてお待ち申しておりました、あまり遅いものですから、戸だけは締めておきましたが、まだみんな起きているのでございます、さあ、お通り下さいませ」
案内をしてくれたその女は、また見覚えのある女であります。振返って見ると、そこに置き据えられた駕籠は、もうありません。
案内された座敷は、昨夜と違って明るい座敷でありました。朱塗りの雪洞《ぼんぼり》が、いくつも点いて、勾欄《こうらん》つきの縁側まで見えているが、その広い座敷に誰一人もおりません。家内の者はまだ起きていると言ったにかかわらず、入って見れば、ひっそりとして人の気配は更にありません。
ここへ案内をしてくれた女の人は、燈籠《とうろう》の下へ、ぴたりと坐ると、あちらを向いて頻《しき》りに物を書きはじめました。昨夕の女は、旅の客の疲れも知らず面《がお》に仕事をしていたが、今宵はまたお客をさしおいて、あちら向きで物を書いているのは、よほどさし迫った用向に違いない。いかに差迫った手紙とは言いながら、お客をそっちのけにして、あんまり無作法だと思いましたから、
「何を書くのか知らないが、手紙は後廻しにしておいたらどうだ」
苦々《にがにが》しく言い放ったけれども、あちらを向いていた女は向き直ろうともしません。女の書いている巻紙だけが、するすると竜之助の見ている方へ流れて来るのです。雨漏《あまも》りの水が板の間を伝って流れて来るように、紙が眼の前を流れて行くから、いったい、何をそれほど熱心に書いているのだろうと、のぞいて見ると、
[#ここから2字下げ]
花は散りても
春は咲く
鳥は古巣へ帰れども
往きて帰らぬ
死出の旅
[#ここで字下げ終わり]
と書いてありました。何のつもりで、こんな文句を書き出したのか知ら。その次を読んでみると、やっぱり同じように、
[#ここから2字下げ]
花は散りても
春は咲く
[#ここで字下げ終わり]
次へ次へと読んで行っても、どこまで読んでも同じ文句です。
その手紙がぼーっと白け渡った時分に、あちらを向いていた女が、こちらを向いて、
「あなた、お眼はいかがでございます」
突然にこう言って、暗い燈籠の蔭からたずねました。
「相変らずいけないよ」
女があまりなれなれしく言ったから、それで竜之助も砕けた返事をしました。
「まだいけませんのですか、困りましたね、早くお癒《なお》しなさらなくてはいけません」
「癒るものか」
それは冷罵《れいば》の語気であります。
「癒らないことはございますまい」
「癒るものか」
いよいよ冷淡にハネ返すと、女は何を思ったか、
「それでは仕方がございません、早くあの峠を越えてしまいましょう、あの峠を越えないと、どうも心配でなりません、こうしていても眠れませんもの」
「あの峠とは?」
女の指差したところを振仰いで見ると、それは前にながめた小仏の峠であります。左右を見ると、路の両側には小流れが流れていて、人家のまばらな甲州街道の一駅に相違ない。例の駕籠がどこから出て来たか、その小仏峠の方を指して一散に飛んで行きます。これもいつのまにか旅仕度をしていた竜之助は、やはりその駕籠《かご》に引添うて道を急いで行くうちに、橋を渡ると追分になっていました。
駕籠は追分を左へ一散に急ぐのに、竜之助だけが右へそれてしまいました。右へそれては駕籠を見失ってしまうにきまっているけれども、行手に見える小仏の峠へ出るには、どうしても右へ行かなければならないと思われてなりません。左へ行くのは嘘だと思われてなりません。右へたった一人で急いで行くと、最初のうちは、左の道に、畑や、林や、流れを隔てて駕籠の飛んで行くのがよく見えました。急ぐほどに双方の距離がようやく隔たって、とうとう見えなくなりました。駕籠が見えなくなった時分に、峠も見えなくなりました。
ははあ、小仏へ出るには、あちらの道を通るのがよかったのだな、と気がついたけれども、もう引返す道さえわかりません。四方《あたり》はいっぱいに雲と霧がとりまいて、自分は今、かなりの深山幽谷にさまよっているということを発見しました。
「どうも仕方がない」
と呟《つぶや》いて草鞋《わらじ》の紐を締め直しました。その時に、つい耳もとで、どうどうと水の鳴る音が聞えます。草鞋を結び終って背後を見ると、雲の絶え間に一条の滝がかかっている。さのみ大きな滝とは見えないが、懸崖《けんがい》を直下に落ちて、見上ぐるばかりに真紅《しんく》の色をした楓《もみじ》が生《お》い重なって、その一ひら二ひらが、ちらちらと笠の上に降りかかって来ました。
「あれが蛇滝でございます」
と言う声で気がつくと、そこは小名路《こなじ》の宿でもなければ、小仏の峠道でもありません。中仙道の板橋の宿場|外《はず》れの旅籠屋の、だだっぴろい陰気な座敷の一間で、眼のさめた時に二番鶏がしきりに鳴いていました。
「まだ寝ないのか」
竜之助が驚かされたのは、暗い行燈の下に夜もすがら、まんじりともしなかったらしい女は、思い余って忍び音に泣いているところでありました。
「どうしても眠れません」
何だか知らないが、その声が竜之助の心を嗾《そそ》りました。
「生きている間は眠れまい」
と言ったのは、自分ながら謎《なぞ》のような言葉です。
「本当でございます、わたしは、どうして死んだらよいか、それを昨夜も一晩中考えておりました」
「そして考えついたかな」
「やっぱり人に弄《なぶ》り殺しにされてしまいとうございます」
「なるほど」
寝返りを打つと竜之助は、枕許の刀の下緒《さげお》をずっと引き寄せました。
底本:「大菩薩峠6」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年2月22日第1刷発行
底本の親本:「大菩薩峠 四」筑摩書房
1976(昭和51)年6月20日初版発行
※「お玉ケ池」「躑躅《つつじ》ケ崎《さき》」「小金ケ原」の「ケ」を小書きしない扱いは、底本通りにしました。
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:(株)モモ
校正:原田頌子
2002年10月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったの
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