も御多分に洩れず、冷やかに突き放しました。
「お前のお父さんを連れて来て助けてもらえ」
女の子は頭を振りました。
「お父さんは駄目です、お父さんは助けてくれません、お父さんが助けてくれないだけならいいけれど、そのお父さんが先に立って、ああして母ちゃんを苛《いじ》めているのですもの」
「エエ、お前のお父さんが先に立って?」
「ええ、お父さんだって、そんなに母ちゃんが憎いのじゃないでしょうけれど、ああして、先に立って、母ちゃんのお仕置《しおき》をしなけりゃならないんですって。だから誰だって、母ちゃんを助けてくれる人はありません。小父さん、どうぞ、頼みます、もう母ちゃんに悪いことをさせませんから、今日は、これで許して上げてくださいまし、どうぞ、頼みます、小父さん」
こう言って女の子が、杖とも柱とも竜之助一人に縋《すが》りつく時に、一方盲法師の弁信は、いよいよ群集の中へ深入りしてしまいました。
「皆さん、人の罪を責めるのは結構なことでございますけれども、それよりも結構なのは、人の罪をゆるして上げることでございます、責められて恨む者はございましても、ゆるされて有難いと思わぬものはございませぬ、どなたも人間でございますから、あやまちの無いという限りはございませぬ、人のあやまちは七度《ななたび》ゆるして上げてくださいまし、ゆるし難いあやまちでも、許して上げるのが功徳《くどく》でございます、悪木《あくぼく》の梢にも情けの露は宿ると申しまして、許し難いものを許して上げるほど功徳が大きいのでございます、どうか、皆様、ここで神様のお心になって下さいまし、仏様のお心になって下さいまし」
こちらから見ていると、弁信の差し上げている提灯《ちょうちん》だけが人波に揉まれて左右に揺れます。ちょうど担《かつ》ぎ上げられた樽御輿《たるみこし》が、担がれたままで自由になっているように、真闇《まっくら》な人波のうごめく中で提灯のみが宙に浮いているようです。
その時に、群集の焦点から、また一つの騒ぎが起りました。それと共に、大波の崩れたように人だかりが四方へ溢れ出しました。
「御亭主殿が気狂《きちが》いになった、御亭主殿が気狂いになって脇差を抜いて荒《あば》れ出した、だれかれの見さかいなく人を斬りはじめた、危ない、逃げろ!」
原っぱに集まった幾百の人波が、真暗な中を右往左往に逃げ惑います。
なるほど、その通りでしょう。群集の逃げ惑う真中に、髪は大童《おおわらわ》になって、片肌を脱いだ男が一人、一尺八寸ほどの脇差を振りかざして、当るを幸いにきって廻っているところは、佐野次郎左衛門の荒れ出したような有様です。
思うに、この男は、不義をした女の御亭主なのでしょう。あまりのことに逆上して、かっと気が狂うてこのていたらくと見えます。
驚いて押えようとした者は、みんな斬られたようです。逃げ迷うて転んだ者も、浅かれ深かれ一太刀ずつは浴びせられているようです。これによって見ると、相応に手は利《き》いているのかも知れません。手の利いていないまでも、気狂いになるほどの逆上に刃物を持たせたのだから、無人の境を行くが如くに群集の中を荒れ狂う勢いは、手がつけられないものらしい。
ただ九曜巴《くようともえ》の提灯だけが一つ、相変らず宙に浮いて、右へ揺れたり左へ揺れたりしているところを見れば、弁信だけはまだ斬られてはいない様子です。生きている間は、持って生れたお喋りが止みそうにも思われません。
「そうれごらんなさい、何か大変が出来ましたでしょう、いくら罪ある者にしましたところで、それを責めることが、あんまりキツいと、きっと咎《とが》があります、許して上げれば、その徳が、いつかはこっちへ向ってかえりますけれども、あんまりキツいことをなさると、恨みがみんなこちらへかかるものでございます。何か大変が出来ましたようですね、何でございます、エ、本当の御亭主さんが気狂いになりましたんですって? そうでございましょう、そういうことにならなければよいにと思いました。敵も味方も見さかいなく斬りつけておいでなさるんですって? それそれ、そういうことになってしまうのでございます、悲しいことですね、なんでも最初に許しておしまいになれば、そんなことにはならないのでございましたのに、許して上げないから、こんな悲しいことが出来ました」
弁信は逃げ惑う人に押し返されながら提灯を振り立てて、こんなことを言いましたけれども、誰とて耳に入れるものはありません。またなるほどと感心して、それを聞いているような場合でもありません。
兇刃を振りかざした気狂いは、もうその背後まで迫って怒号しています。
「おれの女房は美《い》い女だ、美い女だから、おれも好きで女房に貰ったんだ、おれが好きで貰った女房を誰がなんと言うんだ、おれが美い女と見るくらいのものは、ほかの男が見たって美い女だ、だから、どうしたと言うんだ、おれが惚れるくらいの女に、ほかの男が惚れるのはあたりまえだ、それがどうしたと言うんだ、わからねえ奴等じゃねえか、それほど女房が大事なら、箱へ入れて蔵《しま》っておくがいいや、箱へ入れたって虫がつくということがあるじゃねえか、自分の女房に虫が附いたからって、土用干しもできねえじゃねえか、奴等あ、みんな嫉《そね》んでそういうことをするんだな、おれが美い女房を持っているものだから、それをけな[#「けな」に傍点]れがって、寄ってたかって、あんまりひでえことをしやがら、だから承知ができねえ、さあ、矢でも鉄砲でも持って来い、これからはおれが相手だ、おれの女房に指一本だって差させるものか、さあ来い」
自分も血まみれになって、血に染まった白刃を振りかざして、前後の辻褄《つじつま》の合わない啖呵《たんか》を切って、息せきながら弁信の背後《うしろ》まで迫って来ました。盲法師の提灯が危ない。提灯を斬られた切先でその頭が危ない。頭を斬られれば命が危ない。さすがの弁信も狼狽《ろうばい》して逃げ惑いました。
いま打ち下ろした刃《やいば》は、弁信の持っていた九曜巴の提灯をパッと斬り落したらしい。弁信はアッと言って倒れたから、それで第二の刃をのがれることができました。
あとは、真暗闇《まっくらやみ》の広っぱ[#「広っぱ」に傍点]を、その狂人が躍り上り、躍り上って狂い走ります。
その時に、狂人の刃の下に取縋《とりすが》ったものがあります。それは八歳になる女の子でありました。
「お父さん、危ない」
竜之助の耳には、ただその騒がしい物音を聞くのみです。
涯《かぎ》りも知れぬ広い原に、野火が燃え出して、右往左往に人が逃げ走る光景を想像するだけであります。
疾風に煽《あお》られた野火のような勢いで、触れるものをめらめらと舐《な》めて行く一個の狂人を想い浮べるのみであります。
その狂人が、こうも突発的に狂い出した原因は、ほぼわかりました。その狂人のいかなる種類の男に属するかということは、想像があるのみです。
その時に現われた狂人の面影《おもかげ》は、大和の国の三輪の藍玉屋《あいだまや》の倅《せがれ》の金蔵というもののそれにそっくりです。その倅は三輪大明神の社家《しゃけ》、植田丹後守の屋敷に預けられていたお豊に命がけで懸想《けそう》した男であります。その執念深い恋が、ついには物になって、お豊をつれて紀伊の国の竜神へ行って温泉宿の亭主となったその男であります。その宿から火が出て竜神の村を焼いた時に、竜之助はその男を、なんの苦もなく日高川の水上《みなかみ》へ斬って落しました。その後、お豊の話によると、金蔵は嫉妬《しっと》ゆえに狂い出したものだそうです。お豊と、ある前髪の若いさむらい[#「さむらい」に傍点]との間を疑《うたぐ》って、それから狂い出したということであります。取るに足らぬ男ではあったけれども、その執念の深いことは怖るべきものでした。垣根を忍び越えようとして竜之助のために泥田へ投げ込まれた恨みも、植田丹後守が自分を遠ざけるがために、お豊をかくまったことも、ことごとく、彼にとっては恨みの種でありました。ついには鉄砲を持ち出して、お豊以外の邪魔物をすべて撃ち殺そうとして失敗《しくじ》った程の執念であります。弾薬を明神の杉の木の根に埋めて、これを植田丹後守に見つかって、それがために処におられなくなったけれども、恋を捨てることができません。いろいろに浮身《うきみ》をやつして、ついにお豊の心を靡《なび》かせてしまいました。心は靡かないにしても、女をわが物とすることができました。その時のことを、竜之助はよく見て知っていたものです。知ってそのままに、十津川の旗上げに加わりました。
今や、その男の執念がここにめぐって来たものと見えます。竜之助の眼にうつるのは、髪をふり乱した藍玉屋の金蔵であります。斬られつ追われつしているのは、かつて三輪の社頭で見たその時のすべての人々であります。藍玉屋の親爺もあれば、薬屋の夫婦のものもあります。植田丹後守に召使われた男や女たち、それに、はじめて三輪へたどりついた時に、将棋をさして無駄口を叩いていたすべての面《かお》が、いずれも面の色を変えて逃げ惑うている光景がありありと現われます。
阿修羅のように荒れ出した金蔵が、血刀を振りかざして、遥かの彼方《あなた》の野原から此方《こちら》をのぞんで走って来る光景がありありと見えます。
「お父さん、助けて下さい――」
女の子の声が、金《かね》をきるように竜之助のみみもとに響く途端に、竜之助の横鬢《よこびん》を掠《かす》めてヒヤリと落ちて来た狂人の刀。小癪《こしゃく》とも言わずに右手を伸べた竜之助は、狂人の脇差の柄《つか》を握って、邪慳《じゃけん》にそれをひったくると、高く振り上げて、水を掻くように無雑作に振り下ろすと、左の肩から垂直に胸の下まで斬り下げました。日高川の上で金蔵を斬って捨てたのが、やっぱりこの手でした。
「あっ!」
狂人は二言ともなくそこへのめ[#「のめ」に傍点]ってしまいました。
四方《あたり》の原は、大風の吹き荒した後のように静かなものです。
燃えさかっていた野火も消えてしまい、それを消そうと騒ぎ廻った人も在らず、寥々《りょうりょう》たる広野の淋しさを感じた時に、ふと気がつきました。
斬ったのは金蔵ではないが、その女は、もしやお豊とは言わないか。
辱《はずかし》められたる不貞の女の憎み、憎む女の肉を食《くら》い、骨を削りたくなるのは、彼の膏肓《こうこう》に入れる病根であるかも知れない。竜之助は、金蔵を斬ったこの刃で、その女を併《あわ》せて殺したくなりました。彼の右の手には、悪血《あくち》がむず[#「むず」に傍点]痒《がゆ》いほどに湧き上って来る。よし、その女が生きていようとも、すでに殺されていようとも、あくまでこの刃をその女の豊満した肉に突き立てて、その血を啜《すす》らなければ飽かぬ思いが、ぞくぞくと全身にこみ[#「こみ」に傍点]上げて来ました。
竜之助が、男から奪い取ったその脇差を離さないのはこの故です。この広野原のいずれかを尋ねたならば、かならずその女の肉体がころがっているに相違ない。求めてその肉を食《くら》わなければ、渾身《こんしん》に漲《みなぎ》る悪血をどうすることもできない。
それにしても、盲法師の弁信はどうしたろう。提灯が消えてしまったからとて、無事でいるならば、あのお喋り好きが何か文句を言い出さない限りはないのに、それが一言も言わないのは、かわいそうに、これも狂人の刃にかかって敢《あえ》なき最期《さいご》を遂げたのか。原をうずめていた無数の人だかりはどうしたものだ。狂人の勢いに怖れをなして一旦は逃げ散っても、また盛り返して取押えに来なければならないはずであるのに、四辺《あたり》に人の近づく気配はない。
森閑として物淋しさが身に沁《し》みると、夢ではないかと思います。夢でなければ狐につままれたものでしょう。巣鴨の庚申塚あたりには悪い狐が出没する。この場の座興に同勢を狩り催して、二人の盲人をからかってみたものかも知れない
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