、お前という人は、やっぱり夢じゃねえのか、女のくせに、たった一人でこの夜中に、どういう由《よし》があって、あの人を尋ねて来たんだ、昼間は訪ねて来られねえのか、そうして話をするに、どうしてその頭巾が取れねえのだ」
 こう言って怒鳴りました。
「米友さん」
 女は存外、優しい声でありますけれども、米友の耳には、頭巾の外《はず》れから、チラと見た夜叉《やしゃ》のような面《おもて》が眼について、その優しい声が優しく響きません。
「米友さん……お前はお君のことを知っているだろう、わたしの身の上が知りたければ後で、あの子によく聞いてごらん、わたしがこうして頭巾を被っているわけも、あの子がよく知っていますから聞いてごらん、お君は美しい子だけれども、わたしは美しい人ではありませんから……」
「そんなことは、おいらの知ったことじゃねえ、美しかろうと美しくあるめえと、頭巾を被って人に挨拶するのは礼儀じゃねえ」
「ああ、わたしはここへ礼儀を習いに来たのじゃありません、米友さん、わたしは、お前さんに礼儀作法を教えていただくためにここへ来たのじゃありません、ぜひ聞かしてもらわねばならぬことはほかにあります、お前でなければ知った人がないから、それで、わざわざ忍んでこの夜更けに訪ねて来ました、きっとお礼はしますから、御恩に着ますから、後生《ごしょう》ですから教えて下さい。お前の知っているお君は美しい子だから、誰にでも可愛がられます、わたしは、そうはゆきません、わたしを可愛がってくれたのは、あの幸内と、それから目の見えない人が、わたしは好きなのです、目の見える人は、わたしは嫌いです、目の見えない人がわたしは好きで好きでたまりません、米友さん、後生だからその人のところを教えて下さい」
 女は物狂わしいようになって、泣き出してしまいました。本《もと》もうら[#「うら」に傍点]も知ることのできない米友は呆気《あっけ》に取られて、得意の啖呵《たんか》を切って突き放すこともできません。それのみならず、この突然な、無躾《ぶしつけ》な来客の、人に迫るような言いぶりのうちに、なんだか、哀れな、いじらしいものがあるような心持に打たれて、米友は憤《おこ》っていいのだか、同情していいのだか、自分ながらわからない心持で、眼を円くしているほかはないのであります。
「おいらには、わからねえ」
 米友は無意味にこう言って、首を左右に振りながら眼をつぶりました。
「わからないことはありません、お前は、きっと知っているはずなのに、これほどに言っても、お前はわたしに教えてくれない、どうしても教えてくれなければ、わたしも了見があるから……わたしは世間から嫌われています、世間の人からいい笑い物にされています、それは、わたしが生れつきから、そんなであったんじゃありません、継母《おっか》さんが悪いんです、継母さんが、わたしをにくんでこんなにしてしまったのです、その前のわたしは、綺麗《きれい》な子でした、誰も、わたしを賞《ほ》めない人はありませんでした、それだのに、継母さんのためにこんなにされてしまいました、わたしを見る人は、みんなわたしを嫌います、いい笑い物にします、それは無理はありません、ですから、わたしは人に見られるのは嫌いです、ですから、わたしがほんとうに好きな人は眼の見えない人だけなのです。ね、米友さん、わたしの心持がわかったでしょう、わかったら、教えて下さいな、後生だから、あの人のいるところを教えて下さいな、頼みます」
 女は平伏《ひれふ》して、米友の前へ手を合わせぬばかりです。しかしながらこれは、いよいよ米友を煙《けむ》に巻くようなものとなりました。
「おいらには、何が何だかよくわからねえが、お前の尋ねるその盲目《めくら》の先生はな……本当のことを言えばこの家にいるんだ」
「エ、この家に?」
「そうさ、この家においらと二人で隠れているんだが、今はいねえ」
「どこへ行きました」
「どこへ行ったか、おいらにもわからねえんだが、夜になると、おいらに黙って、そっと出し抜いて出かけてしまうのだ」
「まあ、どこへ行くのでしょう、そうして、いつごろ出かけて、いつごろ帰ります」
「いつごろ帰るんだろうなあ、朝になって見ると、ちゃんと帰ってるからなあ」
「あ、それではわかった、きっと吉原へ行くのでしょう」
「吉原へ?」
「お前に知れないように、吉原へ行って、またお前に知れないように、ここへ戻っているんでしょう」
「そうじゃねえ」
「それでは、どこへ何しに行きます」
「うむ、そいつは、ちっと言いにくいなあ」
 米友は頭を抱えて、畳の上を見つめますと、女はいっそう強く、
「言ってごらん、何を言っても、わたしは怒らないから」
「うむ、お前はいったい、あの盲目《めくら》の先生を、いい人と思っているのか、それとも悪人だと思っているのか」
「わたしは何だかわからない、善い人だか、悪い人だかわからないけれど、わたしは離れられない」
「あいつは、悪人だぜ」
 米友は抱えていた頭を擡《もた》げて、こう言いましたけれども、女はさのみ驚きません。
「どうして、あの人が悪いの」
「ありゃ、女が好きだよ」
「エ?」
「そうして、腕が利《き》いてるよ」
「それは知っていますよ」
「女が好きで、好きな女をみんな殺しちまうんだ――腕が利いてるから堪《たま》らねえ」
「米友さん、お前はそのことを本気で言っているの、それを知って、そうだといっているの、エ、それを、わたしが知らないと思ってるの」
「うむ――」
 米友は何か知らず、力を入れて唸《うな》りました。女は、米友の近くへ摺寄《すりよ》って、
「さあ、言って下さい、わたしは少しも驚きません、あの人が、女を殺したということを、お前が知っているなら言って下さい、わたしも知っていることを言ってみせます」
「うーむ」
 米友が再び唸って、額に皺《しわ》を寄せて、深い沈黙に落ちようとする時に、女は躍起《やっき》となって、真向《まとも》に燈火《あかり》へ面《おもて》を向けて、さも心地よさそうに、
「だから、わたしは、あの人が好きなのです、あの人は、平気で人を殺すから、それで、わたしは、あの人が好きです、あの人は、若い女の血を飲みたがっているのでしょう、わたしが傍にいれば、人は殺さないのです、女は殺さないはずです、わたしが傍にいないから、それでほかの女を殺してしまいます、わたしと離れているから、それで咽喉《のど》が乾いて我慢がしきれないで、女を殺すんです、無理もありません、そうでしょう、毎晩、出かけるのは、吉原へ行くんじゃありません、ここから吉原へ行くんじゃありません、ここから吉原まで、あの人に往来《ゆきき》ができるわけがありません、そんなことをしたがる人じゃありません、あれは辻斬に出るのです、人を斬りに出るのです、それは今に始まったことじゃありません、甲府にいる時もそうでした、あの人は平気で何人でも殺してしまいます。ええ、わたしだけはよく知っています、どこで、どんな人を幾人斬ったということまで、ちゃんと帳面に記してあるんですから。それで今晩も出かけたのでしょう、どっちへ行きました、どの方角へ行きました、米友さん、これから、わたしをその方角へ連れて行って下さい」

         二

 ちょうど、その晩のことでありました。柳橋の、とある船宿の二階で、手紙を読んでいるのは駒井甚三郎であります。
「殿様、あの、お客様が参りました」
 取次いだのは、宿のおかみさんらしくあります。
「あ、待ち兼ねていた、ここへ通してもらいたい」
 駒井は読んでいた手紙を巻きながら、待っていると、
「御免下さりませ」
 おかみさんに案内されてそこへ面《おもて》を現わしたのは、年の頃五十恰好で、しかるべき大工の棟梁《とうりょう》といったような人柄の男でありましたが、甚三郎を見ると急に改まって、
「これはこれは駒井の殿様でござりましたか、これはお珍らしいところで、思いがけなくお目にかかりまする」
 恭《うやうや》しくそこへ両手を突いたが、驚きのうちにも、相当の親しみがあるらしい。
「寅吉、ほんとに暫くであったな」
「いや、もう、ずいぶん思いがけないことでございました、お手紙が届いてから、どなた様かとしきりに思案を致しては参りましたが、駒井の殿様とは、夢にも存じませんことでございました」
「まあ、ともかく、こちらへ入るがよい」
「それでは、御免を蒙りまして」
 寅吉と呼ばれた棟梁らしい男は、駒井の傍近く膝行《にじ》り寄って、頭を下げました。
「相変らず壮健《たっしゃ》で結構だな」
「はい、おかげさまで風邪一つ引きも致しませんが、いったい殿様は、その後、どちらにおいであそばしました。江川様にお目にかかった時お聞き申してみましたが、江川様も御存じがないそうでございました、多分、西洋の方へおいでになったんじゃなかろうかと、おっしゃってでございましたが、ここで殿様にお目にかかろうとは、ほんとに夢のようでございます」
「まあ、それを話すと長いことになるがな、拙者は今、房州に行っている」
「へえ、房州においででございますか、房州はどちらでいらっしゃいます」
「房州は洲崎《すのさき》じゃ、もと砲台のあった遠見の番所に隠れていたのが、仔細《しさい》あってこのごろ江戸へやって来た、噂《うわさ》を聞くと、近頃そちは芝の江川のところに来ているそうだから、ぜひとも会ってみたい心持になって、あの手紙を遣《つか》わしたのじゃ、早速、出向いて来てくれて忝《かたじけ》ない」
「どう致しまして、そうおっしゃって下されば、伊豆が長崎におりましょうとも、いつでも出向いて参ります。私はまた小野様か、肥田様か、そうでなければ春山様……といろいろにお案じ申し上げて参りました」
「就いては寅吉、呼び立てたのは、ただ久しぶりでそちに会ってみたくなったのみならず、相談したいこともあってのことじゃ。それより以前に一つ、そちに対して申しわけのないことがある、と言うのは、あの清吉じゃ、あれは房州まで拙者と一緒に行ってくれたが、ここへ来る前の時に、行方知れずになってしまったわい」
「エエ、清の野郎が行方知れずになりましたか、あいつは人間が少し愚図ですからな」
「人間は朴直《ぼくちょく》であって、腕は、お前の秘蔵弟子だけに見所《みどころ》のある男であったが、不意に行方知れずになった、手を尽して捜索したが、どうもわからぬ、あの辺の海は危険な海であるから、ことによると、波に捲き込まれたのかも知れぬ、いずれ帰った上で、また篤《とく》と捜索をせにゃならぬが、それについて、そちに頼みたいのは、そちの弟子のうちで、もう一人、あれに似たようなものを世話してくれまいか。いや一人より二人がよろしい、そちの見立てでしかるべきものを二人ほど連れて房州へ帰りたいものじゃ」
「よろしうございます、たしかにおひきうけ申しました」
 寅吉は、甚三郎の頼みを快く承知する。
「では、きまり次第に、その者をこの家まで向けてもらいたい、この家の主人《あるじ》は、もと拙者の家来筋の者じゃ、不在でもわかるようにしておく」
「畏《かしこ》まりました、二三日中には必ず連れて参りまする。それはそうと、殿様には房州で何か、おはじめなさるんでございますか」
「あの海岸でひとつ、スクーネルをこしらえてみたいのじゃ」
「なるほど、それは結構でございます、殿様の御設計ならば、私共がなにも申し上げることはございませんが、材料と手間がいかがでございます、いっそ、石川島でおやりになったらいかがでございますな」
「万事はあちらで相当に間に合わすつもりじゃ、土地の若い者を集めて、相当に教え込んでも使えるだろうから。で、二三の友人に相談もして、その助力も受けることになっているから、秘密というわけにも参るまいが、なるべく表立たぬように、自分共の手一つで仕上げて、そして自分たちの自由に乗り廻せるようにしてみたいと思うている、それには石川島では都合が悪い、戸田へ行こうかとも思ったが、少々遠くもあり、差支えもあって、ついに房州洲崎の地を選んだわけじ
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