だ煙草を吹かしながら、
「なんだか、その切髪のお部屋様らしいお方というが気にかかる」
と言いました。
 茂太郎が多くの婦人客から可愛がられて、その席へ呼ばれるのは今に始まったことではないのに、今日のお客に限って、お角が留守の間に、楽屋のものをうまく籠絡《ろうらく》して、茂太郎を拉《らっ》して行ったもののように思われてならない。何か特別に、茂太郎に野心があって、物ずきな若い御隠居の美人が、誘惑を試みたように思われてならない。いつもならば、そんなに心配になることではないのに、前後の事情を聞いてみれば、おかしなことが多い。お角はそのことを、いろいろに思案していたが、やがて、荒っぽく火鉢の縁を叩いて煙管《きせる》を投げ出し、どてら[#「どてら」に傍点]を脱いで帯を締め直しました。ようやく、その柳橋の殿様とやらへ伺候する気になったものと見える。
 お角が軽業小屋を出た時分に、雨が降り出していました。
 下足番が蛇の目の傘を差しかけて、送って行こうというのを、お角は断わって、傘だけを受取って外へ出ました。
 お角がこれから訪ねようとするのは、柳橋の船宿にいる駒井甚三郎の許《もと》であります。ついこ
前へ 次へ
全221ページ中83ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング