で諸国の遍歴を志し、その門出に参詣したのがこの高尾山の飯綱権現の社であった。その社の前で、名を甚内と改めて、生涯のある目的を祈願した。それから相州の平塚在に暫く足を留めて、そこで盗賊の首領となった。その後、箱根山へ隠れて強盗の張本となった。高坂甚内は、宮本武蔵に就いて剣道の奥儀を究《きわ》めた上に、強勇にして力量がある。ことに水練に達して久しく水底《みずそこ》に沈み、水の中を行くこと魚の如くであったと言われている。加うるに身体は不死身《ふじみ》であって、一切の刀剣も刃が立たないということでありました。
その頃、「日本三甚内」とうたわれた三人の甚内があった。三人ともに同名で、そうして同じく兇悪なる盗賊であった。右に言う高坂甚内をその随一とし、もう一人は、庄司甚内――である。これは吉原を初めて開いた人であるが、前身はやっぱり盗賊で、剣槍《けんそう》に一流を究め、忍術に妙を得て、その上、力量三十人に敵し、日に四十里を歩み、昼夜眠らずして倦《う》むことなく、それに奇妙なのは盗賊ながら日本を週国して、孝子孝女を探り、堂宮《どうみや》の廃《すた》れたのをおこして歩いたというところが変っている。そ
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