拳を固めています……かくて暫くする時、この船宿の表の戸に突き当る音、続いてバッタリと人の倒れるような音がしました。

         三

 ちょうど、この晩のこの時刻に、長者町の道庵先生が茅町《かやちょう》の方面から、フラフラとして第六天の方へ向いて歩いて来ました。
 いったい、この先生は、こんなところへ出て来なくってもいい先生であります。なるべくは、真剣の場所へは出したくないのですが、こういう先生に限って、出るなと言えば出てみたがり、出てもらいたい時には沈没したりして、世話を焼かせる先生であります。
 いかに先生だとはいえ、身に金鉄の装《よそお》いがあるわけではなく、腕に武術の覚えがあるわけではなく、時は、この物騒な江戸の町の深夜を我物顔《わがものがお》に、たった一人で歩くということの、非常な冒険であることを知らないわけはありますまい。知ってそうしてその危険を冒《おか》すのは、つまり酒がさせる業《わざ》であって、先生自身の罪ではありますまい。ただしかし、一杯機嫌で、この真夜中にフラフラと歩き出して前後の危険をも忘れてしまい、ただ無性《むしょう》にいい心持になっているほどに、先生の
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