縫っているのは、郁太郎の着物ではありません。乱れた髪かたちを直してから、自分の着物の綻《ほころ》びを繕《つくろ》っているものらしい。
夢にうなされた人の声に驚いた女の人は、針の手を止めて暗い行燈の光で、うなされている人の面《おもて》をさしのぞくと、
「まだ起きておられたのか」
夢から醒《さ》めて、かえって現実の人の醒めているのを不思議がるようです。
「はい、まだ起きてお仕事をしておりました」
女の返事は、まことに、しとやかな返事であります。
「こんな夜更けまで、誰の着物を縫っているのだ」
「いいえ、誰の着物でもございませぬ」
と言いながら、女は再び針の手を運ばせて、
「たいそう夢に、うなされておいでのようでございました」
「ああ、妙な夢を見た」
「怖い夢でございましたか」
「怖いというほどの夢でもないが、見ている間は夢とうつつがよくわからなかったが、醒めてみると、やっぱり夢の通りだ」
竜之助の言うことは、まだ夢とうつつの境に彷徨《さまよ》うているもののようです。
再び夢路に迷い込んだ机竜之助は、またも旅中の人であります。行手を急ぐ一挺の駕籠に附添うて、いずこともなく走り行く
前へ
次へ
全221ページ中212ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング