のうちに、本手の『鈴慕《れいぼ》』というのをお吹きになりましたね。俗曲の『恋慕《れんぼ》』とは違いまして、『鈴慕』と申しますのは、御承知でもございましょうが、普化禅師《ふけぜんじ》の遷化《せんげ》なさる時の鈴の音に合せた秘曲なんでございます、人間界から、天上界に上って行く時の音が、あれなんだそうでございます。わたくしはその方がお吹きになった『鈴慕』を聞きまして、下総小金ケ原の一月寺のことを思い出しました。あれは普化宗の総本山でございます。今はおりますか、どうですか、そこに尺八の名人がその時分おいでになりました、以前、私はその方から『鈴慕』を聞かせていただいたのが忘れられません。その時の心持と、今晩の心持とが同じことでございます、人間界を離れて、天上界にうつる心持というのはこれかも知れません。尺八の音《ね》に引かれて、知らず知らずわたくしはここまでおあとを慕って来て、ついに、お屋敷の中まで紛れ込んでしまいました。そういうわけでございますから、決して怪しいものではございません、どうぞお見のがし下さいまし」
 一息に語りつづけてしまった弁信の長物語に、抑えつけていた者も呆《あき》れたらしいが
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