、泣きたいほどに悶《もだ》えました。
 この苦痛に翻弄《ほんろう》されて、へとへとになって相生町の老女の家へ帰って見ると、自分の部屋に人が一人いて、無遠慮に兵馬の机へ寄りかかって物を書いています。
「おお南条殿、いつお帰りになりました」
 それは南条力でありました。
「やあ宇津木君、どこへ行っていた」
 どこへ行っていたと言われた兵馬は、
「つい、そこまで」
と勢いのない返事です。
「君、面《かお》の色がよくないぞ」
 南条はその爛々《らんらん》たる眼で、兵馬の面をジロリと見て、
「君が意気銷沈《いきしょうちん》していると娘たちが心配する、それに君、あまり外泊はせん方がよろしいぞ」
「…………」
 兵馬はグッと詰まりました。
 その時に南条力は、書きかけていた筆をさしおいて、膝を兵馬の方に向き直らせ、
「君のことだから、そうばかげたこともすまいけれど、はたで見ているものは相当に気を揉むらしい。気を揉ませぬようにしてやってくれよ、周囲《まわり》の者に気を揉ませるのがいちばん毒じゃ」
 南条は光る眼をすずしくしてこう言いました。その言葉の節々《ふしぶし》が何もかも心得ているもののようで、真
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