この上に、血気の連中が、男女二人の肉体に向って、有らん限りの侮辱を加えようとするものらしい。すでに加えているのかも知れない。男には堪えられる侮辱も、女には堪えられない。むしろ殺された方が遥かにまさる辱《はずかし》めのために、女が身を悶《もだ》えて泣いているのが、弁信にもよくわかります。
ともかくも殺すことは憚《はばか》りがあるから、彼等の制裁はそこまでは行くまいが、当人たちは、そうされるよりは、殺されることを心から訴えて号泣しています。
見物している者の中には女性もありました。見ていられないで面《かお》を蔽《おお》うて逃げ出す者もありました。しかしながら、そのために、たとえ一言でもとりなしを言おうとする者はありません。惨《さん》として一語もなく、そのなりゆきを気遣って泣くものさえありません。泣いて同情を現わすことが自分の弱味になることを怖れたのでしょう。
「あたいのお母ちゃんが殺されるよう」
誰も彼も惨として一語なきところに、咽喉《のど》も裂けるばかりに号泣してこの場へ駆けつけて来たのは、まだいたいけな子供です。
憐れむべきはその子供です。多くの人が鳴りをひそめて見物しているうちに、その子供だけが母なる人の命を助けられんとして、号泣して飛び廻るけれど、誰あって、この子供の訴えを聞いてやるものはありません。誰に取付いても、みんな突き放してしまいます。突き放さないものは、なんと言って慰めてやっていいか、その言葉に苦しんで横を向いてしまいます。
「母ちゃんを殺しちゃいやよう」
七歳か八歳になるほどの女の子です。ついに竜之助の袂に縋《すが》りつきました。
「小父《おじ》さん、母ちゃんを助けて上げて下さい、刀を差している人は、弱い者を助けて上げてもいいでしょう、ね、小父さん」
女の子は竜之助の刀にとりついて、わあわあと泣きます。どこへ行っても突き放された子供は、もはや、その人をたよることなしに、手に触った腰の物を頼むものらしい。
「あれはお前の母親か」
竜之助はこう言って尋ねました。
「小父さん、あれは、あたしの母ちゃんです、みんなの人がああして苛《いじ》めます、あたしは、母ちゃんが何を悪いことをしたか知らないけれど、みんなして、ああして酷《ひど》い目に逢わせるんですもの、誰も、母ちゃんを助けてくれる人は一人もありません」
女の子が必死に縋りつくのを、竜之助も御多分に洩れず、冷やかに突き放しました。
「お前のお父さんを連れて来て助けてもらえ」
女の子は頭を振りました。
「お父さんは駄目です、お父さんは助けてくれません、お父さんが助けてくれないだけならいいけれど、そのお父さんが先に立って、ああして母ちゃんを苛《いじ》めているのですもの」
「エエ、お前のお父さんが先に立って?」
「ええ、お父さんだって、そんなに母ちゃんが憎いのじゃないでしょうけれど、ああして、先に立って、母ちゃんのお仕置《しおき》をしなけりゃならないんですって。だから誰だって、母ちゃんを助けてくれる人はありません。小父さん、どうぞ、頼みます、もう母ちゃんに悪いことをさせませんから、今日は、これで許して上げてくださいまし、どうぞ、頼みます、小父さん」
こう言って女の子が、杖とも柱とも竜之助一人に縋《すが》りつく時に、一方盲法師の弁信は、いよいよ群集の中へ深入りしてしまいました。
「皆さん、人の罪を責めるのは結構なことでございますけれども、それよりも結構なのは、人の罪をゆるして上げることでございます、責められて恨む者はございましても、ゆるされて有難いと思わぬものはございませぬ、どなたも人間でございますから、あやまちの無いという限りはございませぬ、人のあやまちは七度《ななたび》ゆるして上げてくださいまし、ゆるし難いあやまちでも、許して上げるのが功徳《くどく》でございます、悪木《あくぼく》の梢にも情けの露は宿ると申しまして、許し難いものを許して上げるほど功徳が大きいのでございます、どうか、皆様、ここで神様のお心になって下さいまし、仏様のお心になって下さいまし」
こちらから見ていると、弁信の差し上げている提灯《ちょうちん》だけが人波に揉まれて左右に揺れます。ちょうど担《かつ》ぎ上げられた樽御輿《たるみこし》が、担がれたままで自由になっているように、真闇《まっくら》な人波のうごめく中で提灯のみが宙に浮いているようです。
その時に、群集の焦点から、また一つの騒ぎが起りました。それと共に、大波の崩れたように人だかりが四方へ溢れ出しました。
「御亭主殿が気狂《きちが》いになった、御亭主殿が気狂いになって脇差を抜いて荒《あば》れ出した、だれかれの見さかいなく人を斬りはじめた、危ない、逃げろ!」
原っぱに集まった幾百の人波が、真暗な中を右往左往に逃げ惑います。
なる
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