へ落ちてしまった時に、生きていたいとか、助かりたいとかいう心持が、すっかりなくなってしまいました、大へん良い心持になりました、ですから、私は、井戸へ落ちましてからは、助けてくれとも、生かしてくれとも、一言《ひとこと》も申しませんでした。幸いに、身体には怪我は一つも致しませんで、しっかりとこの縄を握っておりましたから、水の底へも沈みはしませんでした、わたくしの身体は半分だけ水の中へブラリと下って、半分は水の上に浮き上っておりました、その時、わたくしはどっちでもいいと思いました。再び地の上へ浮き上れなければ、水の底へ沈んでしまっても、嬉しい心持で往生ができると思いました。そうしているうちに、わたくしの身体が少しずつ上へ上へと引き上げられるようでございます……その時も私は、どちらでもよいと思いました」
 小坊主の言葉を聞いている竜之助は、煙草盆の縁で煙草の吸殻をハタきます。
 その後、染井の化物屋敷へ、また一個の怪物が加わることになりました。その怪物とは、盲法師《めくらほうし》の弁信であります。
 二階には竜之助とお銀様とが住んでいるところに、弁信は階下の板の間に一畳の畳を敷いて、その上に安んじていました。土蔵の二階には窓があるけれども、下には窓がありません。尋常の人では昼も燈火《あかり》を点《とも》さなければ堪《こら》えられないところへ、盲法師の弁信は平気で座を構えました。
 そこで翌日からの弁信の仕事は、琵琶の手入れをすることです。昨夜の井戸端の騒ぎで、弁信の平家琵琶の上部は滅茶滅茶に毀《こわ》れました。弁信は一挺の鑿《のみ》と若干の材料とを借受けて、手細工で、それをコツコツと修繕に余念がありません。
「この平家琵琶ばかりは、好く人はばかに好きなんでございます、嫌いな人は見向きも致しません、それで、よく世間の人が、平家は江州鮒《ごうしゅうぶな》のようだと申します、好きな人はどこまでも好きでございます、嫌いなものは、てんで見向きも致しません、そこを申したんでございましょうね。わたくしが、この琵琶を習いはじめましたのは……」
 お喋り好きなこの小坊主は、余念なく毀れた琵琶の手入れをしながらも、人の足音さえ聞えれば何がな語り出すのであります。人が耳を傾けようものなら、自分の素性来歴までも事細かに喋り出そうとするのだが、ここにはお銀様と、それから屋敷の召使のほかには、あまり近寄るものはありません。相手が無くなると平家の文章を、ひとりで口吟《くちずさ》んで、曲の歌い廻しが思うようにゆかない時は、幾度も謡い直しています。そのくせ、琵琶修繕の手は少しも休むのではありません。ただ捗《はか》がゆかないだけで、どこをどう直しているのだか、この分では、一面の琵琶修繕に半年もかかるかと思われるほどのていたらくです。
「ヘヘエ、やるというほどでもございませんが、好きなものでございますからね。三味線も、ちょっとばかりならお相手を致しましょう。私に琵琶を教えてくれました検校《けんぎょう》が、何でも心得のある人でございましてね、その人から調子だけを教えていただきまして、あとは自分で工夫すると、どうやら当りがつくのでございますから、追々と、いろいろの音曲をやってみたいとこう思ってるんでございます。お寺にいては、そういろいろのものをやるわけには参りませんから、在家《ざいけ》におりますうちに、あれこれと手を出しておきたいと思っているんでございます。それでは芸人になるとおこごとが出るかも知れませんが、私は芸人でよろしうございます、とても名僧智識となって、衆生済度《しゅじょうさいど》を致すようなことは、私共の及ぶところではございませんから、芸人となって、いろいろの面白い音曲を皆様にお聞かせ申し、皆様をお喜ばせ申すことができれば、それで結構でございます。ですから平家琵琶は、あまり多くの人好きが致しませんもの故に、琵琶をやめていっそ三味線に移ろうかと、このごろはそう思っているところでございました。それ故、こうして毀《こわ》れた琵琶に手入れをしてみまして、もし調子が合わないようにでもなりますれば、ここで琵琶をやめて、三味線の方に宗旨替《しゅうしが》えを致しましょうと、そのつもりでこうしてやっているんでございます……合奏ですか、結構でございますね、琵琶はこの通りいけませんから、三味線でお相手を致したいものですが、三味線がございますか。あ、そうですか、先生が尺八で、あなた様がお箏《こと》で、わたくしが三味線で……それは至極よろしうございます、お相手を致しましょう。わたくしは数をあまり多く存じませんから、一つ二つ教えていただきましょう、三度教えていただけば、どうやら独り歩きができるだろうと存じます。それでも私は毎晩、琵琶を流して歩きまするうちに、諸方のお師匠さんの軒下へ立って、いろ
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