うしてわたくしが、これほどの目に遭わなければならないのですか、それがわかりません、お助け下さいまし」
井戸の車がミシミシと軋《きし》る音を聞いていると、盲法師は神尾の暴力を必死にこらえて、井戸の縄にとりすがっているもののようです。神尾主膳は、無茶苦茶に残忍性が嵩《こう》じて、口も利《き》けないほどに昂奮《こうふん》しているらしく、ただ鼻息のみが荒く、力を極めて一人の盲法師を井戸の中へ投げ込もうとしているもののようです。そうさせじと争う力は、盲目《めくら》の小坊主ながら侮り難きものと見えて、神尾が力を極めてやっても、ややもすればもてあますほどの抵抗力があります。最初は神尾の腕にとりすがってみたが、それを※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《も》ぎ離されると、今度は着物に取付きました。その着物が破れると、今度は井戸桁に取付きました。井戸桁に取付いたのを※[#「てへん+劣」、読みは「も」、第3水準1−84−77]ぎ取られると、今は頼みの綱の井戸縄に、しっかりと抱きついて、物哀れな悲鳴を揚げているのであります。死を怖るることかくの如く、生に愛着することかくの如くなればこそ、神尾の残忍性はいよいよそれに興味が乗ってきます。弁信が素直に殺される気ならば、神尾は、さまで問題にしなかったかも知れません。それにも拘らず、弁信はいよいよ悲鳴の限りを加えて、
「死ぬのがいやなんではございません、死なねばならぬわけがわからないのでございます、殺されるのが怖いのではございません、ここで殺されるほどの罪を、わたくしはまだ作った覚えがございません、死ねとおっしゃればいつでも死にます、わたくしが死んで、ひとさまが助かりますようなことならば、いつでも死んでお目にかけます、また、わたくしの過去の罪と、現世の罪が重いから、こうして殺すのだとおっしゃるならば、幾度でも殺されて、罪ほろぼしを致しますでございます、けれども、今晩、こうして……見ず知らずのあなた様のために、なんにもわけがなくて、ただ、お屋敷のまわりをうろついていたという廉《かど》だけで、生きながら井戸の中へ投げ込まれましては、私には死んでも死にきれませぬ、どうぞ、お助けなすって下さい、どうしてもお殺しなさるならば、私が死ねるようにしてお殺し下さいまし」
必死になって悲鳴を揚げれば揚げるほど、神尾の残忍性に油を加えるものに過ぎません。過去世も未来世もあったものでありません。神尾はついに金剛力を出しました。その力で、わずかに取縋《とりすが》っていた一条の井戸縄の手が離れました。
「あれ――」
凄《すさま》じい音を立てたのが、この世の別れであったかなかったか、弁信はついに井戸の底へ、生きながら投げ込まれてしまいました。
「あっ!」
これと共に絶叫して、後《しり》えに※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と倒れたのが神尾主膳であります。
お銀様は我を忘れて、土蔵の二階から倉の戸前まで一息に駈け下りてしまいました。
二階から駈け下りたるお銀様が、倉の重い戸前をあけるには、かなりの暇がかかりました。
ようやく、それをあけて井戸端まで来て見ると、後ろに倒れた神尾主膳は、福村の手によって頻《しき》りに介抱されています。介抱している福村は、度を失うてあわてきっているのがあまりに大仰《おおぎょう》です。
「早く、何とかしてくれ、誰でもいい、早く何とかしてくれ、大将が死んでしまう、この傷を見るがいい、始末が悪い、この傷を見るがいい」
福村は神尾を抑えたり抱えたりして、うろたえ廻っているのを、お銀様は冷笑気味で後目《しりめ》にかけて、弁信が投げ込まれた井戸へ近づこうとしたが、井戸の屋根の柱につるしてあった提灯の光が、あいにくに、怪我をしたという神尾の面《おもて》を照らしています。神尾主膳の面は、左右の眉の間から額の生際《はえぎわ》へかけて、牡丹餅大《ぼたもちだい》の肉を殺《そ》ぎ取られ、そこから、ベットリと血が流れているのです。福村があわて迷うててんてこ舞[#「てんてこ舞」に傍点]をしているのは、その大怪我のためであることがわかりました。
この点においてはお銀様は冷やかなものでした。神尾の額の大怪我は、むしろ痛快至極なものだと思いました。だから、いくら福村があわてようと噪《さわ》ごうと、いっこう驚かない。神尾が苦しむのは当然であって、ところもあろうに額の真中へ刻印を捺《お》されたことの小気味よさを喜ばないわけにはゆかないが、それにしても、咄嗟《とっさ》の間に、神尾がこの大傷を受けて倒れたのは何に原因するのか、それがわからないなりに井戸の車の輪を見上げると、釣瓶《つるべ》の一方が、車の輪のところへ食い上って逆立ちをしているように見えます。気のせいか、その釣瓶の一端に、神尾の額から殺《そ》
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