際、嫌疑をかけられて探られた場合に、痛い所がないとは言えない住居であります。それを引捕えて糺明《きゅうめい》しようというのは、主膳の仕業《しわざ》としては有り得べきことに違いないが、それにしても、生きながら井戸へ投げ込むというのはあまりに惨酷である。さすがにお銀様も、いい心持でそれを聞いているわけにはゆきません……ところで盲法師の申しわけは、少しく意想の外《ほか》でありました。
「それには仔細がございます、わたくしが、こんなところまで迷い込みましたのは、お屋敷の御様子をおうかがいしようなんて、そんなわけではございません、尺八の音色《ねいろ》に聞き惚れて、ついついここまで参りましたのでございます。その仔細と申しますのは斯様《かよう》でございます、わたくしが今晩、町を流して参りますと、ふと尺八の音が聞えました。わたくしは眼が見えませんから、音を聞くことが好きでございます。音には御承知の通り、宮商角徴羽《きゅうしょうかくちう》などの幾通りもございます、また双調《そうじょう》、盤渉調《ばんしきちょう》、黄鐘調《おうしきちょう》といったような調子もいろいろございます、それをわたくしは聞きわけるのが好きでございます。そのほかに音というものは、人の心持によって変化が起るものなんでございます。心に悲しみを持った時は、喜びの調べを吹きましても喜びには響きません、心に楽しみを持ったときは、よし、悲しい音を吹きましても、その悲しみの中に喜びがあるのでございます、身体の壮健《すこやか》な時に吹く音と、病気の前に吹く音とは違っております。失礼ながら、あなた方がお聞きになっては少しも違わないとおっしゃる音を、わたくしが聞けば違ったと申すことがございます。人に災《わざわ》いの起る前にはその音を聞いていると、ひとりでにわかることがあるのでございます……それでございますから、わたくしは、気にかかる物の音色は、聞き過ごしに致すことはできないのでございます。そこで、今晩、聞きました尺八の音色は、近ごろ珍しいものでございました。わたくしはその音色を聞きながら、いろいろと想像を致しまして、ついつい、こんなところまで、おあとを慕って来たようなわけなんでございます。と申しますのは、その方は駕籠《かご》の中で尺八を吹いておいでになりましたんですが、わたくしと同じことに、眼の見えないお方なんでございます。眼の見えない方の吹くのと、眼の見える方の吹くのとは、私にはよくわかるのでございます。ところが、同じ眼の見えないに致しましても、そのお方の眼の見えないのと、私の見えないのとは性質《たち》が違うんでございますね。わたくしの眼は、全くつぶれてしまった眼でございますが、その方のは、どうかするとあきます、再び眼があくべきはずのものを、あかせて上げることができないのでございます。それですから、わたくしの眼は、全く闇の中へ落ちきった眼でございますけれど、そのお方のは、天にも登らず、闇にも落ちない業《ごう》にからまれた眼でございます。それに、わたくしが、どうしても不思議でたまらないと思いますのは、前に、わたくしはその方と一度、逢ったことがあるんでございます。どうしてそれがわかったかと申しますと、駕籠の中で咳をなすった時に気がつきました。いつぞやの晩、神田の柳原の土手というところを通ります時分に、わたくしは怖いものに出会《でくわ》しました、怖ろしいことをして、人を嬲殺《なぶりごろ》しにしているお方がありました、その方が、つまり今夜、尺八を吹いて、駕籠に揺られてこちらの方へおいでになった方なんでございます。その尺八のうちに、本手の『鈴慕《れいぼ》』というのをお吹きになりましたね。俗曲の『恋慕《れんぼ》』とは違いまして、『鈴慕』と申しますのは、御承知でもございましょうが、普化禅師《ふけぜんじ》の遷化《せんげ》なさる時の鈴の音に合せた秘曲なんでございます、人間界から、天上界に上って行く時の音が、あれなんだそうでございます。わたくしはその方がお吹きになった『鈴慕』を聞きまして、下総小金ケ原の一月寺のことを思い出しました。あれは普化宗の総本山でございます。今はおりますか、どうですか、そこに尺八の名人がその時分おいでになりました、以前、私はその方から『鈴慕』を聞かせていただいたのが忘れられません。その時の心持と、今晩の心持とが同じことでございます、人間界を離れて、天上界にうつる心持というのはこれかも知れません。尺八の音《ね》に引かれて、知らず知らずわたくしはここまでおあとを慕って来て、ついに、お屋敷の中まで紛れ込んでしまいました。そういうわけでございますから、決して怪しいものではございません、どうぞお見のがし下さいまし」
一息に語りつづけてしまった弁信の長物語に、抑えつけていた者も呆《あき》れたらしいが
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