りむら》まで来ると、そこで本街道を曲って入り込んだのが、酒折の宮であります。
 酒折の宮の庭へ入って見ると、松林の間に人が集まって噪《さわ》いでいます。
 日本武尊が東征の時、ここに行宮《あんぐう》を置いて、
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新治《にひはり》、筑波《つくば》を過ぎて幾夜《いくよ》か寝つる
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と歌を以て尋ねた時、傍の燭《しょく》を持てるものが、
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かがなへて夜には九夜《ここのよ》、日には十日《とをか》を
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と答えたという事蹟がある。
 ここに立てる石碑のうちには、本居宣長《もとおりのりなが》の「酒折宮寿詞《さかおりのみやよごと》」を平田篤胤《ひらたあつたね》の筆で書いたものと、甲州の勤王家|山県大弐《やまがただいに》の撰した漢文の碑もある。七兵衛は、左様な委《くわ》しいことは知らないけれども、この社《やしろ》が由緒《ゆいしょ》ある社であるということは心得ているはずです。右等の碑文が、さほど好事家《こうずか》の間に珍重がられているという理由は知らないが、いずれ俳諧師かなんぞの風流人が、石摺《いしずり》を取っているのだろうと見当をつけました。
 これらの連中からわざと遠廻りをして社の裏へ出て、暫く様子をうかがっていると、
「エエ、宝暦十二年、壬午《じんご》夏四月、山県昌謹撰とあるが、宝暦十二年は、いったい今から何年の昔になるのじゃ」
「左様な、宝暦は俊明院殿の時代で、ええと、今からおよそ、一百三年、或いは四年前に当る――」
 こんなことを言って風流人は、紙に巻いたものを携え、ゾロゾロ松林の中を出て行ってしまいました。
 そこで七兵衛は神社の表へ廻り、参詣をするふり[#「ふり」に傍点]をして扉をあけて、社内へ入り込むと足場を見はからって、梁《はり》を伝わって天井の上へ身を隠してしまいました。
 これは申すまでもなく、さいぜん山崎譲の前で誓った、伯耆の安綱の刀というのを取り出しに来たものであろう。その伯耆の安綱の名刀というのは、お銀様の家、藤原家に祖先以来伝わる名刀であって、それをお銀様に頼んで幸内が持ち出し、幸内はその刀のために、神尾の惨忍な手にかかって一命を落し、その刀はまた神尾の手からがんりき[#「がんりき」に傍点]の百の手にうつり、百は流鏑馬《やぶさめ》の夕べを騒がして、七兵衛と共にいずこと
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