れたのか、後《うし》ろ袈裟《げさ》に、ザックリと思う壺に浴びせられて、二言《にごん》ともなく息が絶えている形であります。その死物狂いで欄干へとりついたのが、木の枝にかじりついた蝉《せみ》のぬけ殻と同じような形であります。
駒井は篤《とく》と提灯の光で、それを見届けた上に、なお徐《おもむ》ろに橋の上を進んで行くのであります。その進んで行く橋板の上はベットリと血だらけですから、ややもすればそれに辷《すべ》って、足を浚《さら》われようとする間を選んで徐《しず》かに歩きました。
左には両国橋が長蛇の如く蜿蜒《えんえん》としている。右手は平右衛門町と浅草御門までの間の淋しい河岸で、天地は深々《しんしん》として、神田川も、大川も、水音さえ眠るの時でありました。
「駒井の殿様」
堪り兼ねたと見えて寅吉が、あとを慕うて来ました。
「お危のうございますよ」
駒井甚三郎は提灯を差し上げて、寅吉の方を照しましたけれど、その時は、もう来るなと言ってとめはしません。
「あッ」
と言って、寅吉は、その橋板に流されている血汐に辷りました。お危のうございますという口の下から、自分が危なく打倒れようとして橋の欄干に取縋《とりすが》った、ついその隣は、例のしがみ[#「しがみ」に傍点]ついた屍骸でしたから、慄《ふる》え上って飛び退きました。
「駒井の殿様、あんまり進み過ぎて、お怪我のないように」
寅吉は橋を渡りきることができないでいたが、駒井甚三郎は頓着なく、橋の向うの板留まで歩いて行きました。
そこで、ゆくりなく拾い上げたのは一口《ひとふり》の刀であります。それを駒井が提灯の光で見ている時、今まで眠れるもののように静かであった大川の水音が、遽《にわ》かにざわついてきました。潮が上げて来たものでもなく、雨が降り出したわけでもなく、水の瀬が開ける音がしたのは一隻の端舟《はしけ》が、櫓《ろ》の音も忍びやかに両国橋の下を潜って、神田川へ乗り込み、この辺の河岸《かし》に舟を着けようとしているものらしい。拾い上げた刀を見ていた駒井は、早くもその舟を認めました。刀を照らした提灯の光で、今時分、河岸へつけようとした怪しの舟の何者であって、どこから来たものであるかを確めようとしました。
それを怪しいと見たのはおたがいのことで、ここまで乗りつけて来た小舟の船夫《せんどう》はまた、櫓を押すことを休めて、橋上を
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