尻だけは今夜のうちに、江川の邸へ着けてえんだ、よろしく頼むぜ」
 山崎がこう言うと、馬の側《わき》にいた屋敷出入りの飛脚らしい五十男が、
「ようございます、たしかに、私が今夜のうちに、新銭座の江川様へ、このお馬だけはお届け申すことにしますから、旦那様、どうかごゆっくりと御用をお足しなさいまし」
 快く引受けたから、山崎は馬から飛んで下りて、
「それじゃあ頼む。それ、この笠をかぶりな、合羽も引っかけて行くがいい、この提灯にはそれ、江川の印があるから、消さねえようにして行ってくれ」
「旦那、それには及びますまい、この菅笠《すげがさ》で結構ですよ」
「そうでねえ、三度笠が定法《じょうほう》だから、冠《かぶ》って行くがよかろう、江川の邸で笑われても詰まらねえからな」
「それじゃ、お借り申すことに致しましょうかな」
「それで、お前のその菅笠をおれに貸してくれ、合羽はおたがいにそれでよかろうじゃねえか」
 山崎譲は身代りの印として、久造には自分の冠っていた三度笠を渡し、自分は久造の菅笠をかぶり、江川の印のついた小田原提灯を渡して、新宿の追分から一行と別れてしまいました。
 山崎がこうして宰領をして来たのは、甲府の城下から、しかるべき要件があって来たものに相違ないが、内藤家の屋敷内に知る人があって急に思い出した用事から、それへ廻るというのは実は嘘で、山崎にはこの新宿に、ちょっとした馴染《なじみ》の女があったため、ここへ来て、ついそれに会って行きたくなったものらしい。
 ところが、この夜に限って大きな間違いが出来てしまったのは、その身代りの宰領が、四谷の大木戸へかかった時分に、何者とも知れず闇の中から躍り出でたものがあって、やにわに馬上の宰領をきって落しました。よほど腕の冴えていたものと見えて、一刀にきって落された宰領は、二言ともなく息が絶えてしまったものです。人々があっと騒ぐ時には、もう曲者《くせもの》の姿はいずれにも見えませんでした。非常な早業であり、非常な手練《てなみ》であったが、止《とど》めを刺す余裕がなかったものか、その必要を認めなかったものか、きり捨てたまま姿を隠してしまいました。懐中の物を奪おうでもなし、荷駄の品物に手をかけようでもありません。何の恨みあって、この宰領を手にかけたものだか、その要領の程が誰にも合点《がてん》がゆきません。
 馴染の女と話をしていた山崎譲
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