の大切の一枚看板を外されては、明日からの人気にさわる。人気よりも、損得よりも、出し抜かれたことがお角としては口惜《くや》しい。ことに相手が女であるとのこと、しかるべき切髪の、まだ水々しい女であったということが癪にさわってたまらない。その女は若党らしい男をお伴《とも》にしていて、茂太郎を連れ出して、船で柳橋の方へ乗り出したということです。負けない気性のお角を、それと知ってしたことか、知らずにした悪戯《いたずら》か、こればかりは容赦ができないと、お角は歯噛みをして口惜しがりました。
 朝になると、染井のお屋敷から参りましたという使の者が、
「へえ、御免下さいまし、染井のお屋敷から、こちらの太夫元へお言伝《ことづけ》がありました、というのはほかじゃございません、こちらの小屋に出ておいでなさる茂太郎さんというのが、どうしたものやら、昨晩、迷児《まよいご》になって、染井のお屋敷のお絹様をたよっておいでになったそうでございます、お絹様も、不憫《ふびん》に思召して、昨晩はあれへお泊め申して、よくよく事情をお聞き申してみまするていと、両国の女軽業《おんなかるわざ》の一座に出ておいでなさるということですから、こちらの太夫元に、もしお心当りがございましたら、早速お引取りにおいで下さるようにと、こういう使の趣で、早々とやって参りました」
 それを聞いたお角が、夜具を刎《は》ねのけて、
「いずれ御挨拶を申し上げますから、帰って下さい」
 使の者は、ニヤリと笑って帰りました。
 なんというばかばかしいことだろう、すっかりあの女に鼻毛を読まれてしまった、どうしたらこの仇《かたき》が打てるだろうと歯ぎしりをしました。ほんとうにそうです。お角として、これから染井の屋敷へ出かけて、あの子を引取りに参りましたと言って、お絹の前へ手が突けるものか、突けないものか。さりとて引取りに行かなければ、向うは、茂太郎を人質に取って、これ見よがしのおもちゃにするにはきまっている。第一、あの呼び物がなくなっては、今日からの一座も打てないじゃないか。お絹という女は虫唾《むしず》の走るほどキザな奴だ、噛んで吐き出してやりたいほどイヤな奴だと、お角は腹が煮えくり返ってたまりません。プンプンして弟子たちに当り散らしているところへ、
「お早う、親方はおいでか」
と言って、やって来たのが七兵衛であります。
 ここへ七兵衛が来合わ
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