尺八の音《ね》が起りました。
「ウーホフ、ホウエヤ……」
 こんどはすががき[#「すががき」に傍点]を始めました。淀《よど》みもなく三べん吹き返したすががき[#「すががき」に傍点]は、子供の歌口とは思われないほどに艶《つや》のあるものです。
「うまいね、金伽羅さん」
 制多伽は、その短笛の音色に心から感心して賞《ほ》めると、賞められた金伽羅は無邪気に嬉しがって、
「あんまり賞めないで頂戴、笛がいいんだよ、笛のせいで、よく吹けるんだね」
「金伽羅さん、こんどはおかざき[#「おかざき」に傍点]をおやりよ、ね、おかざき[#「おかざき」に傍点]をやって下さいな」
「やりましょうかね。では、おかざき[#「おかざき」に傍点]をやるから制多伽さん、お前、おうたいなさいな」
「あ、歌いましょう」
 隣室の人を驚かすことを怖れて、歌わないと言った誓いを忘れて、二人はまた興に入《い》ってしまいました。
[#ここから2字下げ]
岡崎女郎衆
岡崎女郎衆
岡崎女郎衆はよい女郎衆
岡崎女郎衆はよい女郎衆
[#ここで字下げ終わり]
 二人を知っている者は、それでよかろうけれども、二人を知らない者にとっては、壁を隔ててするその会話は、一種異様なものに聞えます。まことの金伽羅童子、制多伽童子がこの場へ天降《あまくだ》りして、戯れ遊んでいるのではないかとさえ思われるほどに、世間ばなれがしています。
 思いがけなくその幸福を受けたのは机竜之助でありました。次の間で天童の戯れ遊ぶことによって、この世からなる地獄の責めを免れました。「恋慕」を聞き、すががき[#「すががき」に傍点]を聞き、「岡崎女郎衆」を聞いているうちに、いつかは知らず恍然《うっとり》として、夢とうつつの境に抱き込まれました。いいあんばいに、ほとんど一日を寝通して、その日の黄昏《たそがれ》にこの家を出て行きました。駕籠《かご》に乗って帰る途中で、昨夜《ゆうべ》の金伽羅童子と制多伽童子のことが思い出され、あの尺八の音色が忘れられません。
 歌の声の可憐なのが、耳許についているようです。
 そこで、駕籠の中から、駕籠舁《かごかき》に向って注文しました、
「尺八を一本求めたいが、新しいのでもよし、古いのでもかまわない」
 やがて、その望みが叶うて、とある道具屋で、駕籠舁が一本の煤色《すすいろ》した尺八を求めてくれました。
 駕籠の中で竜之助は、その
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