大菩薩峠
小名路の巻
中里介山

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)未《いま》だ

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)根岸|鶯春亭《おうしゅんてい》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《も》ぎ
−−

         一

 その晩のこと、宇治山田の米友が夢を見ました。
 米友が夢を見るということは、極めて珍らしいことであります。米友は聖人とは言いにくいけれども、未《いま》だ曾《かつ》て夢らしい夢を見たことのない男です。彼は何かに激して憤《おこ》ることは憤るけれども、それを夢にまで持ち越す執念《しゅうねん》のない男でした。また物に感ずることもないとは言わないけれども、それを夢にまで持ち込んであこがれ[#「あこがれ」に傍点]るほどの優しみのある男ではありません。しかるにその米友が、珍らしくも夢を見ました。
「あ、夢だ、夢だ、夢を見ちまった」
 米友は身体《からだ》へ火がついたほどに驚いて、蒲団《ふとん》からはね起きました。実際われわれは、夢を見つけているからそんなに驚かないけれども、物心を覚えて、はじめて夢を見た人にとっては、夢というものがどのくらい不思議なものだか想像も及ばないことです。
 米友とても、この歳になって、初めて夢を見たわけでもあるまいが、この時の狼狽《あわ》て方は、まさに初めて夢というものを見た人のようでありました。
 そうしてはね起きて、手さぐりで燧《ひうち》を取って行燈《あんどん》をつけ、例の枕屏風《まくらびょうぶ》の中をのぞいて見ると、そこに人がおりません。
「ちぇッ、よくよくだなあ、まさかと思った今夜もまた出し抜かれちまった」
 米友はワッと泣き出しました。米友が夢を見ることも極めて珍らしいが、泣き出すことはなおさら珍らしいことであります。米友は憤《おこ》るけれども、泣かない男です。けれどもこの時は、手放しで声を立てて泣きました。
 昼のうちに、あれほど打解けて話しておったその人が、まさか今晩は無事に寝ているだろうと思ったのに、もう出かけてしまった。昨夜の疲れと、その安心とで、ぐっすりと寝込んでしまったおれは、なんという不覚だろう。それに、今まで滅多には見たこともな
次へ
全111ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング