見舞に行って気を紛らそうと廊下へ出ると、兵馬の部屋の中で、
「へえ、それはもうお買戻しになりまする節は、手前共にございまする間は、いつでも仰せに従いまする、また他の品とお取替えになりまする場合にも、せいぜい勉強致しまして、お使いを下さいますれば、早速お伺い申し上げまする」
と言っているのは、刀屋の番頭らしくあります。
 それを耳にした時も、お松は胸を打たれました。それでは、大切のお腰の物をお放しなさる気になったのか、それほどお入用《いりよう》の金ならばわたしの手で……と思いましたけれども、実は、このごろの自分は、もう貯えのお金とても無いし、自分が持っていないのみならず、お君さんにも、また御老女様にも借金までしてある、その借金はみんな、よそながら、あの人の困る様子を見るに見兼ねて融通して上げたお金であるが、今のところ、返さなくてはならないというほどの義理があるのではないけれど、なるべく早く、なんとかして返して上げたいものだと思っているくらいだから、この上、あの人たちに無心ができるものではない。
 といって、あの人が、みすみす武士の魂という腰の物までも手放そうとなさる今の場合、そのお力にもなれない自分の身の意気地のないことが思われてなりません。お松はそこで、もうお君を見舞に行くほどの勇気もなくなって、さあ、なんとかして、たった今あの刀屋を帰さないようにして上げる手段はないものかと、また自分の部屋へ取って返したけれども、もう所持品にしても、さして金目のあるものはなく、ただ蔵《しま》ってあるのは着物だけであるけれど、それとても、今宵の間に合うのではなし、ああ、こんな時にあの七兵衛のおじさんが来てくれたならと、あてのない人を空頼《そらだの》みにして、とうとう夜を明かしてしまいました。

 翌朝になってみるとお松は、また兵馬に対して、どうやら済まない心持になりました。
 それで、廊下を通りがけに兵馬の部屋を訪れてみると、もうその時に兵馬はそこにおりませんでした。お松は、せっかく、しおらしい心に返ったのが、またむらむらと抑えきれない不快の心に襲われて、足早にそこを立去ろうとするところへ、なにげない面《かお》をしてやって来る一人の男に、ハタと行当りました。
「お早うございます」
「おや、お前は金助さんではないか」
「はい、その金助でございます」
 お松も、小面《こづら》の憎いイヤな奴と思いながらも、何か尋ねてみたい気になって、
「金助さん、宇津木さんはおりませんよ、何か御用なら、わたしが承っておきましょう」
「左様でございますね、別に御用ってほどのこともねえでございますがね、それではこれでお暇《いとま》を致しましょうか知ら」
「あの、金助さん、お前さんに御用がなければ、わたくしの方にお聞き申したいことがあるのですけれど、ちょっとあちらまで来て下さいませんか」
「へえ、お松様、あなた様から何か私に御用があるとおっしゃるんですか、よろしうございます、そうおっしゃられるといやと申し上げるわけにも参りませんな、お邪魔を致しましょう」
 金助は恩にきせるような言い方をして、お松のあとに従って、長い廊下の奥へ行く途中で、
「なるほど、結構なお邸でございますな、ははあ、こちらの障子が霞でございますな、欄間《らんま》の蜀江崩《しょっこうくず》しがまた恐れ入ったものでげす、お床の間は鳥居棚、こちらはまた織部《おりべ》の正面、間毎間毎の結構、眼を驚かすばかりでございます、控燈籠《ひかえどうろう》の棗形《なつめがた》の手水鉢《ちょうずばち》、あの物さびたところが何とも言われません、建前《たてまえ》にこうして渋いところを見せ、間取りには贅《ぜい》を凝《こ》らしておいて、茶室や袖垣のあんばいに、物のさび[#「さび」に傍点]というところをたっぷりとあしらったところなどは実際憎うございますよ。おやおや、大した石燈籠、こりゃ本格ですよ、橘寺形《たちばなでらがた》の石燈籠、これをそのまま据えたところなんぞは、飛ぶ鳥も落すようなものでげす、十万石以上のお大名でもなけりゃ出来ません。全く驚きました、表からお見かけ申したんじゃ、これほどのお住居《すまい》と気のつくものはございません」
 金助は相変らず歯の浮くような追従《ついしょう》を並べて、四辺《あたり》をキョロキョロ見廻しながら、お松に導かれて廊下を歩いて行きます。

         十四

 その時分、お君はムク犬を連れて、奥庭を歩いておりました。
 いつぞやのように打掛《うちかけ》こそ着ていないけれども、寝衣姿《ねまきすがた》のままで、手には妻紫《つまむらさき》の扇子《せんす》を携えて、それで拍子を取って何か小音に口ずさんで歩いて行くと、それでも例によってムクは神妙にあとをついて、築山《つきやま》の前の芝生まで来ました。
「ムクや、お前とここで投扇興《とうせんきょう》をして遊びましょう、わたしが投げるから、お前、取っておいで」
 こう言ってお君は、手にしていた扇子を颯《さっ》と開いて投げました。扇子は流星のように飛んで彼方《かなた》の芝生の上に落ちると、ムクはユラリと身を躍らして一飛びに飛んで行き、要《かなめ》のあたりを啣《くわ》えて、開いたなりの扇子を、再びお君の手に渡します。
「おお、よく持って来てくれました、お前はほんとによい犬だ、わたしのムク犬や、もう一度、投げるから取っておいで、いいかい、今度は、下へ落ちないうちに受けるのですよ」
 開いてあったその扇子を、ピタリと締めて、お君はそれを空中高く投げ上げました。
「さあ、下へ落ちないうちに」
 中空高く上った扇子が、トンボのように舞って落ちて来ると、それは早くもムクの大きな口の中に啣えられました。
「上手上手、まだお前、いろいろの芸当が出来るんだね、間《あい》の山《やま》にいた時から、わたしが仕込んだ上に、両国へ来てから、みんなに仕込まれたのだから、ずいぶんお前は芸の数を知ってるでしょう、忘れないでおいで。一旦覚えたものを忘れるようなお前じゃないけれど、それでも、お浚《さら》いをしないと、人間だって忘れることが多いんだから無理もないわ」
 お君はムク犬の口から、扇子を外《はず》して頭を撫でてやりましたが、
「忘れるといえば、わたし、三味線の手を忘れてしまやしないか知ら。間の山節は、わたしよりほかに歌える人はないんだから、あれをわたしが忘れてしまうと、あとを継ぐ人がない、それではお母さんに済まない」
 お君はこう言ってその扇子を取り直すと、撥《ばち》のつもりに取りなして、左の手で三味線を抱えるこなしをして、口三味線でうたいはじめ、
「大丈夫、わたしは決して忘れやしない」
 淋しく笑って、池のほとりへ出ました。
「ムクや」
 左へ廻って附いているムク犬を、慌《あわただ》しく右の方から尋ねて、
「お前、他見《わきみ》をしちゃいけません、可愛い可愛いわたしのムク犬や、お前、何でもわたしの言うことを聞いてくれますね、お前は一旦覚えた芸は決して忘れやしませんね、だから、一旦お世話になった人も決して忘れやしないでしょう……ほんとに忘れないならば、お前、殿様をお探し申して来ておくれ、わたしを、あの殿様のいらっしゃるところへ、お前、後生だから連れて行っておくれ」
 お君に、こう言って歎願されても、こればかりはムク犬も返答に困るらしくありました。
「いけないかい、こればかりはお前にもできないだろうね、そうでしょう、殿様はこの国にいらっしゃらないのだからね、海を越えて西洋というところへおいでになってしまったのだから、いくらお前が賢い犬でも、トテモ西洋までは行けやしないからね、これは、頼んだわたしの方が悪いのさ、わたしの方に無理があるんだから仕方がない」
 お君は、こんなことを言いながら、池のまわりを歩いて行きましたが、
「けれどもね、無理のない言いつけなら、お前きいてくれるでしょう、わたしの頼みが間違っていなければ、お前は頼んだ通りによくしてくれるでしょう。そんならお前、友さんの居所《いどころ》を教えて頂戴、米友さんはどこにいるか、そこへわたしを連れて行って頂戴、ね、そうでなければあの人を、ここへ呼んで来ておくれ。いいえ、あの人はきっとこの近所にいるのよ、近所にいるけれども、わたしをにくがっているから、それで来てくれないんだね。けれども、わたし決して友さんににくがられるような悪いことをした覚えはないのよ、あの人は気が短いから、一人で勝手に怒っているんだけれど、よく話をすれば、わたしのことだもの、そんなにわからない米友さんじゃないわ、わたし、もう一ぺん、ようく話をしてみたいと思うの、あの人を怒らしておいちゃ悪いわ、ほんとにあの人はいい人なんだから、怒らしておいちゃ悪いわ。けれども、どうしてあの人はあんなに気が短いんだろう、甲州で別れる時にも、わたしばかりじゃない、あの殿様を大変に悪く思って別れたんだから……殿様を敵《かたき》のように悪口を言って出て行ってしまったのは、お前もあっちにいたから、よく知っているでしょう、それがわたしにはどうしてもわからないの。殿様は悪いお方じゃありません、米友さんもちっとも悪い人じゃありゃしない、それだのに、どうして仇のように思うんでしょう。殿様は、あんなえらいお方でいらっしゃるし、友さんは、わたしと同じことに、とても身分は比べものにはなりゃしないけれども、それでもわたし、米友さんに憎まれるのはいや。いったいわたしゃ、殿様と米友さんとどっちがいいんだろう、どっちがほんとうに好きなんでしょう、わからなくなってしまった」
 ムク犬は、もとよりこの疑問に答うべくもありません。
 今まで忠実に主人を見守っていたムク犬が今度は、それと違って垣根の彼方《かなた》を見つめています。前後の模様を見ると、垣根のかげから庭のうちをうかがっていたものがあるらしい。お君は全くそれに気がつかないが、ムク犬は早くもそれと感づいたらしいのです。
 お君はその時に身のうちに寒気《さむけ》を感じて、いつのまにか、恥かしい寝衣姿《ねまきすがた》で、奥庭の池のほとりに立っている自分を見出しました。
「ああ、悪かった、わたしは、また気がゆるんでしまいました。誰も見ていなかったかしら。ムクや、お前こっちへおいで、わたしは内へ入りますから」
 正気に返ったお君は、※[#「勹/夕」、第3水準1−14−76]惶《そうこう》として縁へ上って、障子の中へ身を隠してしまいました。

         十五

 それから暫らくたって、両国橋を啣《くわ》え楊枝《ようじ》で、折詰をブラさげながら歩いて行くのは例の金助です。
「占めしめ、万事こう来なくっちゃならねえ、駒止橋《こまどめばし》の獣肉茶屋《けだものぢゃや》で一杯飲んで、帰りがけにももんじいや[#「ももんじいや」に傍点]へ寄って、狐を一舟|括《くく》らせて、これから巣鴨の化物屋敷へ乗り込むなんぞは、我ながら凄いもんだ」
 何か嬉しくてたまらないことがあるらしく、しきりに独言《ひとりごと》を言い言い歩きます。
「ところで、今様《いまよう》の鈴木主水《すずきもんど》を一組こしらえ上げてしまったなんぞは、刷毛《はけ》ついでとは言いながら、ちっと罪のようだ」
 こう言ってニタリと笑いました。この先生こそは、相生町の老女の家の兵馬を訪ねて来て、兵馬が出たあとをお松に見つかって呼び込まれて、何か兵馬の近頃の身の上について、お松に喋《しゃべ》ってしまったことがあるらしい男です。
 しかし、この先生のことだから、甲に向って喋ることと、乙に向って喋ることの間に、味をつけないで喋る気遣いはありません。そうしてその間に何かうまい汁がありとすれば、その余瀝《よれき》を啜《すす》って、皿まで噛《かじ》ろうという先生だから、お松に尋ねられたことも、素直には言ってしまわないことはわかっています。おべんちゃら[#「べんちゃら」に傍点]と、お為《ため》ごかしを混合《ごっちゃ》にして、けだもの茶屋の飲代《のみしろ》ぐらいは、たしかにお松からせしめていることは疑うべくもありますまい。
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