うよ、早く本所へ帰ってしまいましょうよ」
この時に行手の方で、騒々《そうぞう》しい人の足音と、声とが起りました。
「今、人殺しと言ったなあ、たしかにここいらだぜ、おいらの僻耳《ひがみみ》じゃねえんだ」
こう言って駈けて来る人は一人だが、その後ろに附添って、真黒い大きな犬が一頭。
「ムク、ここいらだぜ」
その声こそは紛《まご》うべくもなき、宇治山田の米友の声であります。
「人殺しと言ったのは、ここいらなんだ、だからおかしいと思ったんだ」
彼は今、どこにいるのか知らん。先日も両国橋の上へ姿を現わしたところを以て見れば、やはりあの界隈《かいわい》にいるものと見なければなりません。弥勒寺橋《みろくじばし》の長屋にいるものとすれば、まだ机竜之助の世話をしているのでしょう。竜之助の世話をしているといえば、あの男の挙動が、ことにあの身体で夜な夜なの出歩きが、米友の単純な頭を以てどうしても了解ができないで、眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》っていることも、米友としては無理のないことです。
「ああ、いた、いた」
米友は闇の中に躍《おど》り上って、地団駄《じだんだ》を踏み立てているものらしい。ほどなく二人の辻番と、宇治山田の米友と、盲法師の弁信と、お蝶との五人が、路上に横たわった一つの屍骸《しがい》を取巻いて、弁信を除いての四人の眼は、いずれも火のようになって、提灯をその屍骸につきつけているのであります。
「女だ!」
米友が叫びました。
「若い女だ、あだっぽい女だ」
提灯を突きつけている辻番が驚く。
「まあ、かわいそうに」
お蝶は、さすがに眼をそむけてしまいます。
「斬疵《きりきず》ではない、突いて抉《えぐ》ったものじゃ、みずおち[#「みずおち」に傍点]あたりにただ一箇所」
「左様、ほかには疵らしいものはないようだ、確かに突いて抉ったものだが、刃物は槍か、刀か」
「無論、槍傷ではない刀傷だ、してみると試し斬りではなく、遺恨だろう」
「左様、恋の恨みでこうなったものらしい」
「して、女の素性《すじょう》はいったい何者だ」
「左様、しかるべき町家の娘だな。おい姉さん、お前さん、ちょっとこの着物を見てくれないか」
辻番は提灯を振向けて、眼をそむけて戦《おのの》いているお蝶を呼びました。
「ちょっと見てくれ、着物の縞柄《しまがら》を、ちょっと見てもらいたいものだ」
「どうしたらいいでしょう、わたしは怖くって……」
お蝶は慄えながら、それでも再び屍骸の傍へ寄って来て、
「京お召でございます、藍《あい》に茶の大名《だいみょう》の袷《あわせ》、更紗染《さらさぞめ》に縮緬《ちりめん》の下着と二枚重ね……」
お蝶はようやく着物の縞目だけを見て、こう言いました。
「なるほど」
辻番の一人は、矢立と紙を出して、お蝶の口書《くちがき》を取ろうとするものらしい。
「帯は茶の献上博多《けんじょうはかた》でございましょうね」
「それから?」
「羽織は黒羽二重《くろはぶたえ》の加賀絞り……」
「なるほど、そうして髪は島田、鼈甲《べっこう》の中差《なかざし》、まあ詳しいことは御検視が来てからのことだ。ところでお前方」
二人の辻番は、改めて米友、弁信、お蝶三人の者を篤《とく》と見廻し、
「三人のなかで、誰がいちばん先にこの死骸を見つけなすった。いやまあ、後先《あとさき》はドチラでもよいが、拘《かかわ》り合《あ》いだから三人とも、御検視の来るまで控えていてもらいたい、御迷惑だろうがどうも已《や》むを得ん」
そこへ、また一人の辻番が、菰《こも》をかかえてやって来て、
「エライことが出来たなあ」
菰を女の屍骸へうちかけて、
「好い女だなあ、恋の恨みだろうか。いったい、ここでやっつけたのか、殺してここへ持って来たのか」
菰をかぶせてしまうのを惜しそうに、その屍骸を見比べていると、
「エエ、それは殺してここへ運んで参ったのではございません、あの土手の上で、なぶり殺しにして置いて逃げました、殺した人は男には違いありませんけれども、決して恋の恨みではございません、殺したくって、殺したくって、堪《たま》らない人なんでございます、よほど腕の利いた人で、無暗に人が殺したいのです、手にかけておいて、矢の倉の方へ逃げました」
突然にこう言い出したのは、人数の後ろに超然として、見えない眼をみはっていた弁信であります。
「エ、お前はそれを見ていたのかい」
辻番もその他の者も驚きました。弁信の言い分があまりに突然であったから、辻番らは呆気《あっけ》に取られているところへ検視の役人が来ました。それで型の如く、年頃、恰好、着類、所持の品、手疵《てきず》の様子を調べた上に、改めて宇治山田の米友に向いました。
「其方《そのほう》のところと、姓名は」
「鐘撞堂新道、
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