大門《おおもん》を出た宇津木兵馬は、すれ違いに妙な人と行逢って、それを見過ごすことができなかったのは。それは羽織袴に大小を帯びた立派な武家の姿をしていたが、供人は一人もつれず、面《おもて》は厳重に覆面で包んでいます。
 兵馬はこの廓《さと》へ出入りするごとに、往来の人の姿に注意を払っていないことはない。ことに覆面した武家姿のものに向っては、尾行までしてみることが一度や二度ではなかったが、この時すれ違った覆面の人もまた、その例に洩るることができませんでした。
 兵馬はワザとやり過ごして様子をうかがうと、この覆面の武家の後ろ姿に合点《がてん》のゆかぬ節々が幾つも現われてきます。第一、この武家の歩きぶりがつとめて勢いよく闊歩しているようなものだが、どこやらに無理があります。第二には、差している大小が釣合わないということはないが、なんとなく重そうに見えて、差し方がこなれていないことです。この二つを以て見ると、さるべき者が、わざと武士の姿をして来たものか、そうでなければ、病気上りの人ででもありそうです。
 兵馬は、あまり不思議だから、非常中の非常手段ではあったが、ワザと近寄ってその武家にカチッと、自分から鞘当《さやあ》てを試みました。
 武士として鞘当てを受けたのは、果し状をつけられたようなものであるにかかわらず、その武家は知らぬ顔に、人混みに紛れて逃げ去ろうとするのは歯痒《はがゆ》い。
 到底このままには見過ごし難いから、あとをつけると、件《くだん》の覆面は人混みに紛れて、見返り柳をくぐり土手へ出て、暫く行くと辻駕籠《つじかご》を呼びました。
 それを見ると兵馬も、同じように駕籠を傭おうと思ったけれど生憎《あいにく》それはなし、刀と脇差を揺《ゆ》り上げて、いずこまでもこの駕籠と競争する気になりました。
 この駕籠は、竜泉寺方面から下谷を経て、本郷台へ上ります。
 本郷も江戸のうちと言われた、かねやすの店どころではなく、加州家も、追分も、駒込も、いっこう頓着なしに進んで行くこの駕籠は、果してどこまで行ってどこへ留まるのだか、ほとほと兵馬にも見当がつかなくなりました。
 しかしながら、駕籠は、なおずんずんと進んで行くうちに、左右は物淋しい田舎《いなか》の畑道のようなところになっているようです。おおよその方向と、歩いて来た道程で察すれば、駒込の外れか、伝中《でんちゅう》あたりか、或いは巣鴨まで足を踏み入れているかも知れないと思われます。
 とあるお寺の門の前へ来て、はじめて駕籠がハタと留まりました。兵馬も足をとどめて物蔭から遠見にしていると、駕籠賃も酒料《さかて》も無事に交渉が済んで駕籠屋は引返す。駕籠を出た覆面は、お寺の門の中へは入らずに、垣に沿うて横路へ廻る。左がなにがし大名の下屋敷とも思われる大きな塀、右は松並木で、その間に、まばらに見える茅葺《かやぶき》の家が、もう一軒も起きているのはありません。茶畑があって、右へ切れる畑道の辻に庚申塚《こうしんづか》があります。そのとき兵馬は、もうよかろうと思って、後ろから、
「お待ち下さい」
「エ!」
 兵馬に呼びかけられて、覆面の武家は悸《ぎょっ》として立ちどまりました。追いついた兵馬は、
「お待ち下さい」
と言ってわざと、覆面の刀の鐺《こじり》を取りました。
「どなたでございますな」
 覆面の武家は、非常なるきょうふに打たれたようですけれども、その言葉は丁寧で、そうして物優しくありましたから、兵馬はかえって自分の挙動の、あまりになめげ[#「なめげ」に傍点]であることを恥かしく思うようになりました。そのはずです、兵馬に他の目的があればこそ、我から進んでこんな無礼な振舞をしてみようとはするものの、これらの仕打ちは一種の不良少年か、追剥《おいはぎ》類似の、ずいぶんたち[#「たち」に傍点]のよくない挙動と見られても仕方がないのであります。先方が、いよいよ恭謙であり、礼儀正しくあることによって、兵馬は自分で浅ましいと思いながらも、ここまで来ては退引《のっぴき》のならぬことですから、
「お見忘れでござるか、先刻、大門にて御意《ぎょい》得申した、あの御挨拶が承りたいために、おあとを慕うてこれまで参りました。あれはいったい、拙者に恨みあってなされたか、ただしは、お人違いでもござったか、武士の一分そのままにはなり難き故、ぜひ御返答が承りたい」
 兵馬は心苦しくも、こうして性質《たち》の悪い強面《こわもて》を試みると、件《くだん》の覆面はいよいよ神妙に、
「あれは人違いでござりまする、平《ひら》に御容捨を願いまする」
 こう言われて、兵馬はまたも取りつく島がありません。こっちから無礼を加えた上に、ここまでついて来て、なお執念深く喧嘩を売りかけようというのだから、もう堪忍袋《かんにんぶくろ》が切れてよかりそうなも
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