狭くするというほどではありません。
 六枚折りの古色を帯びた金屏風が立てめぐらされたその外《はず》れから、夜具の裾《すそ》が見えるところは、多分、尋ねる人はそこに眠っているのだろうと思われるのであります。
 そこで、お角はまた遠慮をしいしい、畳を踏んで六枚折りの中を覗きました。なるほど、そこに夜具蒲団《やぐふとん》は敷かれてあり、枕もちゃんと置いてありましたけれど、主は藻脱《もぬ》けのからであります。
「おや、どこへお出かけになったのでしょう」
 お角はいぶかしそうに四辺《あたり》を見廻しました。それは朝起きたままで、床を敷きっぱなしにしておいたのではなく、どこかへ出かけて、帰りが遅くなる見込みから、こうして用心して出たものとしか思われません。
 お銀様はいったい、どこへ出て行ったのだろう、それがお角には疑問でした。この人は決して外へは出ない人であった。自分が知れる限りにおいては、この土蔵の中を天地として、あの盲《めし》いたる不思議な剣術の先生に侍《かし》ずいて、一歩もこの土蔵から出ることを好まない人であった。それがこのごろは、こうして夜へかけてまで外出して帰るというのは、いったい何の目的があって、どこへ行くのだろうと、以前を知るお角はそれが不思議でなりません。
 それで、四辺《あたり》を見廻していると、少し離れたところの机の上にも、その左右にも、夥《おびただ》しい書物が散乱しているのであります。この土蔵に蔵《しま》われた本箱の中から、ありたけの本を取り出して、お銀様が、それを片っぱしから読んでいるものとしか思われません。さすがに大家に育った人、お角なんぞから見ると、たった一人で牢屋住居のような中におりながら、別の天地があって、読書三昧《どくしょざんまい》に耽《ふけ》っていられることが羨ましいように思われます。
 お角は、机の傍へ寄って見ましたけれど、ドチラを見ても、四角な文字や、優しい文字、とてもお角の眼にも歯にも合わないものばかりです。気象の勝ったお角は、なんだか自分が当てつけられるように感じて、書物を二三冊、あちらこちらにひっくり返すと、ふと、思いがけない絵の本が一つ現われました。
 それは極彩色の絵の本で、さまざまの男や女が遊び戯れている、今様《いまよう》源氏の絵巻のようなものでありました。
 お角はそれを見ると莞爾《にっこ》と笑って、
「それごらん、お銀様だって、ただの女じゃありませんか」
 子曰《しのたまわ》くや、こそ侍《はべ》れのうちに、こんな浮世絵草紙を見出したことがお角には、かえって味方を得たように頼もしがられて、皮肉な笑いを浮べながら、窓の光に近いところへ持ち出して、その絵巻を繰りひろげて見ると、
「おや?」
と言って、さすがのお角がゾッとするほど驚かされました。
 それは、絵巻のうちの美しい奥方の一人の面《かお》が、蜂の巣のように、針か錐《きり》かのようなもので突き破られていたからです。悪戯《いたずら》にしてもあまりに無惨な悪戯でありましたから、お角は身ぶるいしました。急いでその次を展《ひろ》げて見ると、それは花のような姫君の面《おもて》が、やはり無惨にも同じように針で無数の穴が明けられていました。
「おお怖い」
 その次を展げると、水々しい町家の女房ぶりした女の面が、今度は細い筆の先で、無数の点を打ちつけて、盆の中に黒豆を蒔《ま》いたようになっています。
 あまりのことに呆《あき》れ果ててお角は、それからそれと見てゆくうちに、一巻の絵本のうち、女という女の面《かお》は、どれもこれも、突かれたり汚されたり、完膚《かんぷ》のあるのは一つもないという有様でした。
「あんまり、これでは悪戯《いたずら》が強過ぎる、なんぼなんでも僻《ひが》みが強過ぎる」
 お角は、この悪戯がお銀様の仕業《しわざ》であることは、よくわかっています。そうして、この絵本のうち、美しい男も、好い男も、強そうな男も、いくらも男の数はあるけれども、それには一指も加えないで、女だけをこんなに傷つけ散らし、汚し散らして、ひとり心を慰めようとするお銀様の心持も大概はわかっているが、それにしてもあんまり僻みが強過ぎて、空怖ろしいと思わずにはおられなくなりました。
 いったい、お角はかなり人を食った女で、男も女も、あんまり眼中には置いていない方だが、どうもお銀様という人にばかりは、一目も二目も置かなければ近寄れないような心持で、これまでいるのが不思議でした。
 あの呪われた、お銀様の顔が怖ろしいというわけではなく、どうもお銀様の傍へ寄ると、お角は何かに圧えつけられるようで、ほかの男や女のように、容易《たやす》くこなす[#「こなす」に傍点]ことができません。何を言うにも大家の娘で、持って生れた品格というものが、お角と段違いなせいであるならば、お角は駒井能
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