っとこの子供の顔を見つめました。清澄は安房《あわ》の国の北の端であって、洲崎《すのさき》はその西の涯《はて》になります。いくら小さい国だと言ったところで、国と国との両極端に当るのです。その間を、この少年が両手を後ろに縛られたままで、ここまで逃げて来たということが嘘でなければ、ともかくもそこに、非凡なものの存することを認めないわけにはゆかなかったのでしょう。けれども甚三郎は、そのことを尋ねないで、
「何で、そんなに縛られるようなことをしでかしたのだ」
「悪戯《いたずら》をしたものですから、それで縛られました」
「悪戯? どんな悪戯を」
「ちょっとしたことなんです、ちょっと悪戯をしたんだけれども縛られてしまいました、縛られて、門前の大きな杉の木へつながれてしまいました、それを弁信さんに解いてもらいました、ぐずぐずしていると、岩入坊にまたひどい目に遭わされるから、早くお逃げって弁信さんがそう言ったもんだから、後ろ手に結《ゆわ》かれたのを解いてもらう暇がなくって、一生懸命に、人に見つからないようにこうして逃げて来ました」
「それはよくない、ナゼ逃げ出さないで、お師匠さんに謝罪《あやま》ることをしないのだ」
「駄目、駄目、あたいは、もう、あんなところは早く逃げ出したくって堪らなかったのよ、もう帰らないや」
「お前、お寺にいて坊さんになるのが嫌なのか」
「いいえ、あたいは清澄のお寺に預けられていたけれど、坊さんになるつもりじゃなかったの、お寺の方では、あたいを坊さんにするつもりであったかも知れないけれど、あたいは坊さんになる気なんぞはありゃしない」
 一通りの白状ぶりを聞いても、そんなに大した悪戯《いたずら》をする悪少年とも見えません。けれども甚三郎は、この少年を問い訊《ただ》すことに興味を失わないで、
「そして、お前、これからどこへ行くつもりなのだ」
「あたいは、これから芳浜へ帰ろうと思うんだけれども、芳浜へは帰れないや、だから舟に乗ってどこかへ行ってしまいたいと思っているのよ」
「芳浜にお前の実家《うち》があるのか」
「あたいの実家じゃない、お嬢さんの家があるんですよ」
「お嬢さん……主人の娘だな。清澄へ行く前、そこに居候《いそうろう》をしていたのか」
「あたいは、お嬢さんに可愛がられていたのよ、お嬢さんが、あんまり、あたいを可愛がるもんだから、それでみんなが、あたいをお嬢
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