相模屋方、友造」
 米友はこう言って名乗りました。
「お前はこの夜更けに何用があって、こんなところへ通りかかった」
「エエ、それは、人を迎えに来て……」
 米友が少々|口籠《くちごも》るのを見て、お蝶が横合いから口を出しました。
「わたしの帰りが遅いから、それでこの人が迎えに来てくれたのでございます」
 そこで検視の役人は、お蝶と弁信をしりめにかけ、
「お前たちはまた何しに、こんな夜更けにここへ通りかかったのだ」
「エエ、それは……」
 お蝶も、その返事に少し口籠ったが、そこは米友よりも上手《じょうず》に、
「この人のお帰りを送って参りましたものでございます、ごらんの通り、この人は眼が不自由なものでございますから」
「お前はどこのものだ」
 検視の役人は改めて、盲法師の弁信に問いかけます。弁信は例の通り泣きそうな面《かお》をして、
「私は本所の法恩寺の長屋におりまする弁信と申して、こうして毎夜毎夜琵琶を弾いて市中を歩いている者でございます、琵琶は平家の真似事を致すんでございます、生れは房州の者でございまして、ついこのごろ、江戸へ出て参ったんでございますから、地理も不案内でございまして……」
「よろしい」
 なお弁信が何事か言おうとするのを、役人は打切って、米友の方に向い、
「友造とやら、もう一度、お前がこの死人を見つけ出した顛末《てんまつ》を述べてくれ」
「それは、前に申し上げた通りなんだ、人殺し――という声が聞えたから、それで飛んで来て見ると、この通りなんだ、そのほかには何もいっこう知らねえ」
「それで、その人殺しという声のした時に、怪しい者の逃げて行く影をみとめたということもないのか」
「真闇《まっくら》で、人の影なんぞはちっとも見えなかった」
 米友が頭を左右に振って、肯《がえん》ぜぬ形をした時に、またしても盲法師の弁信が後ろから、抜からぬ面で口を出しました。
「その人は、確かに向うへ逃げました、この人をなぶり殺しにしておいて、そっと忍び足で両国の方へ――矢の倉というんでございますね、あちらの方へ逃げてしまいました」
「ナニ、矢の倉の方へ逃げた? それをお前は見たのか、お前は盲人《もうじん》ではないか」
 検視の役人は、容易ならぬ眼つきで弁信をながめました。附添いの者は、やはり険《けわ》しい面《かお》で、提灯を弁信に突きつけたが、弁信は一向それを怖れずに、

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