に、闇の中にのたうち廻っているのが、まざまざと眼に見えるようです。

 石のように立ち尽していた弁信が、その恐怖から醒《さ》めたのは、それから暫く後でありました。
「弁信さん」
 お蝶もこの時に、ようやく口を利《き》けるようになって、
「弁信さん、お前、何を見ていたの」
「わたしゃ、何も見えやしません、ただ、だまって聞いていました」
「何を聞いていました」
「あすこで人が殺されたのを聞いておりました、女の人がなぶり殺しに殺されるのを、だまって聞いておりました」
「何ですって、女の人が殺された? 冗談《じょうだん》じゃありません、嚇《おどか》しちゃいけませんよ」
「嚇しじゃありません、かわいそうに、ぐっと抱き締められて、その上に刀で幾度も抉《えぐ》られました」
「ほんとに、そんな気味の悪いことを言うのはよして下さい、そうでなくってさえ、わたしはお前さんに留められてから、何だか凄《すご》くなって、怖《こわ》くなって堪らないのですもの」
「どうしてまた、私は、あの人を助けて上げられなかったのでしょう」
「あの人だなんて、誰のことなんですよ、誰もいやしないじゃありませんか」
「あ、そうでしたか、お蝶さん、お前さんにはあの声が聞えませんでしたね」
「わたしにゃ、なんにも聞えやしませんよ」
「なぜ、私はあの時に、大きな声をして呼んで上げなかったんだろう、あの人が、あんなに虐《さいな》まれて殺されている間、それをここにじっと立って、だまって聞いていた私の心持が、自分でわかりません」
「ほんとに何を言ってるんでしょうね、弁信さん、お前さんの言うことが、まだわたしにはサッパリわからない」
「私も私で、いよいよ自分の心持がわからなくなってしまいました、ただ、ああして虐まれて若い女の人がなぶり殺しに遭っているのを、遠くに離れて聞きながら、私はそれを助けて上げようとしないで、何かの力ですく[#「すく」に傍点]められて、その音を聞いている間、私もかえっていい心持のようになって、しまいまでだまってそれを聞いていた自分の心持が、自分でわかりません」
「なんだか、私はぞくぞくと凄くなってきましたよ、弁信さん、お前さんのその面《かお》が凄くなってきました、どうしたらいいでしょうね」
「ああ、わたしもどうしていいか、わからない、今までわたしは、こんな心持になったことはありませんから」
「早く帰りましょ
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