って? お前さん、何の御用でおいでなすったんだい」
「へえ、別に用というわけでもございませんが、人さんのおっしゃるには、両国のこれこれのところで、清澄の茂太郎が今、大変な評判になっているということでございますから、こうやって会いに参りました」
盲法師は、竹の杖に両手を置いてこういうと、楽屋番は不機嫌な面《かお》をして、
「そりゃ、茂太郎さんはこちらにいるにはいるんですが、忙がしいから、そうお目にかかれますまいよ」
「そうでございますか、そんなに忙がしいんでは無理にと申すわけには参りませんね。わたくしもね、こちらへ来ては、まだ一度も会わないものでござんすからね、評判を聞くと、どうも会ってみたくて堪らなくなりましたんで、それでこうやって尋ねて参りました、ちょっとでもよいから会って行きたいんですが、そうも参りませんでしょうかね」
「せっかくだが、今日は駄目だよ、また出直しておいでなさいまし」
「それでは、また出直して来ることに致しましょう、茂ちゃんに、そうおっしゃって下さい、弁信が尋ねて来たとおっしゃって下されば直ぐわかります。私もね、あの子が山を逃げると間もなく、山を出てこうやってこの土地へ参りました、ただいまのところでは法恩寺の長屋に厄介になっておりますんですが、ことによると近いうち、下総《しもうさ》の小金ケ原の一月寺《いちげつじ》というのへ行くことになるかも知れません、それはまだきまったわけじゃあございませんから、当分は法恩寺に御厄介になっているつもりでございます、またわたくしも訪ねて参りますが、茂ちゃんにも、どうか遊びに来るようにおっしゃって下さいまし。それでは今日はこれで失礼を致します」
背に負っている琵琶を重そうに、楽屋番の前に頭を下げたのは、例の清澄寺にいた盲法師の弁信でありました。
「ようござんす、そう言いましょう。おっと危ない危ない、突き当ると溝《どぶ》ですぜ、板囲いについて真直ぐにおいでなさいまし、広い通りへ出ますから」
楽屋番は出て行く弁信を、後ろから気をつけてやりましたけれど、そのあとで、
「いやに薄汚《うすぎた》ねえ坊主だ、どうしてこんなところへ入って来やがったろう、一人で入って来たにしてはあんまり勘が良過ぎらあ」
ぶつぶつ言って、中へ引込んでしまったが、弁信から言伝《ことづ》てられたことは一切忘れてしまって、その趣を茂太郎に取次ごうとも
前へ
次へ
全103ページ中85ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング