ただ、そのくらいならばいいけれども、今様の鈴木主水を一組こしらえたというような言葉は、どうも聞捨てがならない。兵馬と東雲《しののめ》との間が、果してどんなわけになっているのか知れないが、それをお松に向って輪をかけて吹聴《ふいちょう》し、お松を嗾《け》しかけるようなことにしては、これはたしかに罪です。お松はうっかりそれに乗せられるほどの女ではないけれど、こんな男の細工と口前が、ついつい大事を惹《ひ》き起さないとも限らないから、実際は、お松も兵馬も、悪い奴に見込まれたと思わねばなりますまい。
それよりもなお危険なのは、この男がこれから、染井の化物屋敷へ行くと言ったことであります。染井の化物屋敷とは、つまり神尾主膳らの隠れ家をいうものです。神尾の許へ行くからには、どうせ碌《ろく》なことでないのはわかっています。そうしてこの男が老女の家を辞して帰る時に、垣根の蔭から何か、そっと隙見《すきみ》をしてその途端に、
「占めた」
と言って嬉しがりはじめたのは、やっぱりその辺に何か売り込むことが出来て、それを土産《みやげ》に神尾へ乗り込もうという気になったのは、前後の挙動で明らかにわかります。
そうであるとすれば、その隙見は何を見たのだ。刻限から言っても、ムク犬が奥庭で、急にお君の傍を離れたことから言っても、我に返ったお君が、あわてて家の中へ隠れたのから見ても、この男は、はからずあの際、お君の姿を認めたものに違いない。そんならば確かに一大事です。甲府にいる時に、お君はたしかに神尾が一旦は思いをかけた女である、それをこの男が神尾へ売り込むとすれば、今でも神尾の好奇心を嗾《そそ》るに充分であることはわかっているのであります。
それを知っているから金助は、また儲《もう》けの種にありついたように、前祝いかたがた獣肉茶屋《けだものぢゃや》で一杯飲んで、上機嫌で両国の河風に吹かれながら橋を渡って行くものと見える。
こうして有頂天になって橋の半ばまで来た金助が、急に何かにおどかされたように、よろよろとよろけると、踏み留まることができず、脆《もろ》くもバッタリ前に倒れて、暫し起き上ることができません。
「御免よ、御免よ」
金助が、ばったりと倒れて、暫く起き上れないでいる時、それを左に避《よ》けてしきりにお詫《わ》びをしている者があります。それは竹の笠を被《かぶ》った小柄な男でありました
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