に置いて、脚絆《きゃはん》のまま右の足を曲げて左の方へ組み上げたのは、町人風はしているけれども、決して町人ではありません。
 それと向き合った一方のは、前のに比べると年配であります。これはまあ生地《きじ》が百姓らしい上に一癖ありそうで、前のほど横柄《おうへい》でないところは、主従とも見えないが、たしかに前のに対して一目は置いているようです。
 この二人は甘酒に咽喉をうるおしながら、期せずして頭の上の、例の大きな額面に眼が留まりました。
「ははあ、甲源一刀流、秩父の逸見《へんみ》だな」
と言ったのは、足を曲げていた方の道中師です。
「なるほど、逸見先生の御内《おうち》で、大した額を奉納なさいました」
 前のは言い方が横柄で、後のは幾分か慎《つつま》しやかであります。
「うむ、比留間与助、知ってる、桜井なにがし、あれも名前は聞いている、それから三番目……のはどうしたんだ、白紙《しらかみ》を頭から貼りかぶせたのは不体裁《ふていさい》極まるじゃないか」
 その口調にこそ相異はあれ、たった今、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百がしきりに憤慨したのと同じ動機に出でているので、心ある人ならば、誰もその無下な仕方を不快に思わないものはないはずです。
「左様でございますな、何とか仕方がありそうなものでございますな、せっかくの結構な額が、あれのためにだいなしになってしまいますでございますね……おやおや、お待ち下さいましよ」
 年配の方の道中師が、やはり、それをながめているうちに面《おもて》が曇ってきました。
「何だ、どうかしたのか」
 横柄《おうへい》の方のが、それを聞き咎《とが》めると、
「その次に記されておいでになるのは、ありゃ何とございます、宇津木……宇津木と書いてあるんじゃございませんか」
「そうそう、宇津木と書いてある、宇津木文之丞……」
「わかりました、わかりました、思いがけないところで、思いがけない人にぶっつかりましたよ、いやどうも、なんだか怖ろしい因縁がついて廻っているようでございますよ、驚きました」
 こう言って、例の白紙に貼りつぶされた無名の剣客の名前を、呪われたもののような眼付でながめ入るのが変でしたから、横柄な方の道中師が、
「貴様、独《ひと》り合点《がてん》で、幽霊のようなことを言ってはいかん」
「先生、この白紙をかぶせられているお方の名前を、私はちゃんと読
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