よこがお》をごらんになった時の眼つきは別段でございます、全く取殺してしまいそうな、怖い眼つきをなさるのはどういうものでございますか、わたしには合点が参りません」
「それは大きに、そうありそうなことじゃ、ずいぶん恨まれていい筋がある。思えばこの屋敷は化物屋敷に違いない、この神尾主膳と、あの藤原の娘のお銀とが落ち合って、睨み合っているのさえ空怖《そらおそ》ろしい悪戯《いたずら》であるのに、業《ごう》の尽きない机竜之助という盲目《めくら》が、あれが難物じゃ。それにお前だとて、生《なま》やさしい女ではあるまい、あのお絹殿……という女。ああいやになる、いやになる、悪因縁の寄り集まりだ、前世の仇《あだ》ならいいが、この世からの餓鬼畜生に落ちた敵同士が、三すくみの体《てい》で、一つ屋敷に睨み合っているというのは、悪魔の悪戯のようなものだ。酒が苦《にが》い」
 こう言って神尾主膳の眼が、怪しく輝きました。
 神尾主膳の眼が怪しく輝いたのを、お角は変だとは思いました。しかし、この女は主膳に、怖るべき酒乱のあることを知ってはいませんでした。主膳もまた、ここへ来てから、酒乱になるほどには酒を飲んでいませんでした。
「化物屋敷なんて、そんなことがありますものか」
 お角は、主膳の怪しい眼つきを見ながら、そのいやな言葉を打消します。
「拙者《わし》の住むところは、いつでも化物屋敷だ、躑躅ケ崎の古屋敷もかなり化物じみていた」
と言っている時に、不意に、裏手の車井戸がキリキリと鳴りました。その音を聞くと、神尾主膳が急に慄《ふる》え上りました。
「誰か井戸で水を汲んでるな」
「左様でございますね」
「水を汲んじゃいかんと言え」
「それでも、御前」
「いや、水を汲んじゃいかん、拙者はあの車井戸の音が大嫌いだ」
「おおかた、お嬢様が水を汲んでいらっしゃるのでございましょう」
 お角も、車井戸で水を汲んでいる者があることを気がついていました。車井戸の音が嫌いだという神尾の心理状態を、怪しまないわけにはゆかないが、これも酒の上での我儘《わがまま》が出たものと思って、神尾の言うことを軽く受け流しています。
 それにも拘《かかわ》らず、裏の車井戸はキリキリと鳴っています。キリキリと鳴ってはザーッと水をあける音がします。
「まだ水を汲んでいる奴がある、早く行って差止めてしまえ」
「水を汲んでは悪いのでございますか」
「水を汲んで悪いとは言わん、車井戸を鳴らしてはいかんのじゃ」
「それでも、車を鳴らさずに、あの井戸の水を汲むわけには参りますまい」
「拙者《わし》はあの井戸の音が嫌いじゃ、今時分あれを聞くと堪《たま》らん、なにも拙者の嫌いな車井戸を、ワザとああして手繰廻《たぐりまわ》すには及ばんじゃないか」
「それは御前の御無理でございます、何か御用があるからそれで、水をお汲みなさるんでございましょう、御前をおいやがらせ申すために、水を汲んでいらっしゃるのではござんすまい」
「あれ、まだよさんな。よし、拙者が行って止めて来る」
 神尾主膳は刀を提げて立ち上りました。その心持も挙動も、酒の上と見るよりほかには、お角には解釈の仕様がありません。
「まあ、お待ちあそばせ」
 お角は主膳を遮《さえぎ》ってみたけれど、主膳は聞き入れずに縁を下りて、庭下駄を突っかけました。お角はなんとなく不安心だから、それについて庭へ下りました。
 化物屋敷へ人が住むようになったけれども、この庭まではまだ手入れが届いていません。八重葎《やえむぐら》の茂るに任せて、池も、山も、燈籠《とうろう》も、植木も、荒野原の中に佇《たたず》んでいるもののようです。裏手の井戸へ行こうとするらしい主膳の姿が、その雑草の中に隠れるのを、お角はあとを跟《つ》いて行くと、お角の姿もその雑草の中に隠れてしまうほどに、萩や尾花が生《お》い覆《かぶ》さっています。
「誰じゃ、そこで水を汲んでいるのは」
 井戸端にいる人は返事をしませんでした。主膳は焦《じ》れた声で、
「そこで夜《よ》さり水を汲んではいかん、この井戸は、化物屋敷の井戸で、曰《いわ》くのある井戸と知って汲むのか、知らずに汲むのか」
 こう言われたけれども井戸端では、やはり返事がありません。たしかに人はいるにはいるのです。それも白い浴衣《ゆかた》を着た人が少なくとも一人は、しゃがんでいることは誰の眼にもわかります。
「誰じゃ、そこで水を汲んでいるのは」
 しつこく繰返して井戸端へ寄った神尾主膳、酔眼をみはって、
「お銀どのではないか」
 それはお銀様でありました。お銀様は盥《たらい》に向って何かの洗濯をしているところであります。さきほどから神尾が、再三言葉をかけたのが聞えないはずはありません。それに返答をしないのみか、こうして摺寄《すりよ》って来ても見向きもしませんでした。
「洗濯をなさるか、可愛い人へ、お心づくしのために」
 主膳はお銀様の面《かお》を覗《のぞ》きました。お銀様は、その時にツイと立ってまた井戸縄へ手をかけると、神尾主膳は慌《あわ》ててそれを押え、
「はッ、はッ、はッ」
と声高く笑いました。その笑い声を聞くと、お銀様は井戸縄へ手をかけたままで、じっと神尾主膳の面《おもて》を睨めます。
「躑躅《つつじ》ケ崎《さき》の古屋敷にこれと同じような井戸があった、その井戸で、そなたの好きな幸内とやらに、たんと水を呑ましてやったことがあるわい、それから以来、夕方にこの車井戸の軋《きし》る音を聞くと、拙者は胸が悪くなってたまらぬ、この車井戸の音が癪にさわる」
 お銀様の持っている井戸縄を、片手でもって主膳は横の方から引ったくりました。
「何をなさる」
 お銀様は強い声でありました。
「は、は、は」
 神尾の笑い方は尋常の笑い方ではありません。その笑い方を聞くとお銀様はブルブルと身を慄わせ、
「幸内の敵《かたき》」
 思わずこう言って歯を噛むと、
「ナニ、幸内の敵がどうした、たかが馬を引張る雇人の命、この神尾が手にかけてやったのを過分と心得ろ、敵呼ばわりがおかしい、あッははは」
「ああ、口惜《くや》しい」
「何が口惜しい。なるほど、幸内は拙者の手にかけて亡き者にしてやった、お前の好きな幸内は拙者のためにならぬ故、亡き者にしたけれど、その代り、お前には別に好きな人を授けてやったはず」
「ああ、幸内がかわいそうだ」
 お銀様は火を吐くような息を吐き、神尾の手から井戸縄を奪い取って、力を極めて車井戸を軋《きし》らせました。
「汝《おの》れ!」
 神尾主膳は再びその井戸縄を奪い返そうとして、流しの板の上によろよろとよろめきます。それには頓着なく水を汲み上げたお銀様は、今、流しの板から起き上ろうとする神尾主膳の姿を見ると、むらむらと堪《こら》えられなくなったと見えて、
「エエ、どうしようか」
 汲み上げた水を釣瓶《つるべ》のまま、ザブリと主膳の頭の上から浴びせてしまいました。
「やあ、慮外の振舞」
 慌てて起き上ろうとするところを、お銀様は傍《かたえ》にあった手桶を取り上げて、中に残っていた水を柄杓《ひしゃく》ともろともに、畳みかけて主膳の頭の上から浴びせてしまいました。主膳としても不意であったろうし、お銀様としても、我を忘れた乱暴な仕打《しうち》であります。
「ああ、かさねがさね」
 主膳がようやく起き上った時は刀を抜いていました。その時に後ろから、
「御前、お危のうございます」
 抱き留めたのはお角。お銀様はこの時、もう土蔵の中へ入ってしまいました。
 お角に抱き留められた神尾主膳は、例の酒乱が兆《きざ》して荒《あば》れ出すかと思うと、そうでなく、
「あははは、拙者が悪かった」
と言って、ぐんにゃりと萎《しお》れたのは少しく意外で、お角がかえって力抜けがしました。そこで極めて温和《おとな》しく、いったん抜いた刀をも鞘《さや》へ納めて、
「ズブ濡れだ、いやはや」
 主膳としてはあまりに人のよい態度で、土蔵の前へよろよろと歩いて行き、土蔵の戸前から中を覗き込んで、
「机氏、机氏」
と二声ばかり呼びました。
 土蔵の二階では、何かひそひそと話をしていたらしいのが、はたと止まって、真暗でそうして静かで、何とも返事はありません。
「こんな湿《しめ》っぽいところに、このうんき[#「うんき」に傍点]に籠《こも》っていては堪るまい、ちと出て来さっしゃい、ただいま一酌をはじめたところ、相手が無くて困っているのじゃ」
「いま行く」
 二階では、帯を締め直すような音がしました。
「拙者は水を浴びせられた、それでこの通り五体びっしょりになってしまった、衣裳を替えて待っているから直ぐに出て来さっしゃいよ、酒もあり肴《さかな》もあり、月もそろそろ上るはずじゃ」
 主膳はこう言い残して、またよろよろともとの座敷の方へ取って返します。
 ほどなく土蔵から下りて来た机竜之助は、生平《きびら》の帷子《かたびら》を着て、両刀を差して、竹の杖をついて、案内知ったらしいこの荒蔵《あれぐら》を一人で歩いて行きました。
 びっしょりになった浴衣を着換えた神尾主膳もまた、同じように生平の漆紋《うるしもん》で、前の座敷に盃《さかずき》を手にしながら待っていました。
「暑いな」
 竜之助が言うと、
「なかなか蒸《む》す」
 主膳は答えながら、竜之助の手を取って座敷へ延《ひ》いて坐らせ、
「まず、一献《ひとつ》」
 ここで二人は水入らずの酒盛《さかもり》をはじめる。主膳の機嫌は全く直って、調子よく竜之助に酌をしてやりながら、
「何か面白いことをして遊びたいものだな」
と言いました。
「左様、面白いことをして遊びたい」
 竜之助もまた同じようなことを言って相槌《あいづち》を打ちます。二人が面白いことというは、どちらもその内容が全く不分明でありました。内容が不分明ながらに、二人共に何か気が飢《う》えて、酒のほかにしかるべき刺戟を求めているもののようであります。
「ここの屋敷内には、女が三人いて男が二人」
 神尾は謎のようなことを言いました。
 それに返答もせずに竜之助は、酒を飲んでいました。
「やれやれ、月が出たそうな」
 なるほど、木の間から月の光が洩れて、庭へ射し込んで来るようであります。団扇《うちわ》を鳴らしながら立って柱へ片手を置き、退屈そうに、
「いい風が来る」
 月の上る方を見ていた神尾主膳が、急に何か思いついたように坐りかけて、
「机氏、机氏、ちと思いついたことがある、耳寄りな話」
と言って机竜之助の耳のあたりへ面《かお》をさしつけて、何事をか囁《ささや》いて笑い、
「さあ、これから直ぐに出かけよう」
「よろしい」
 何を思いついたのか、二人はその場で話がきまったらしく、主膳の方は急にそわそわと焦《せ》き立ちました。

         七

 それから暫くたつと、吉原の引手茶屋の相模屋というのへ二挺の駕籠《かご》が着いて、駕籠から出た時に、
「これはお珍らしい、神尾の御前」
と相模屋の内儀《ないぎ》が驚くのを、
「神尾ではない、内密内密《ないしょないしょ》」
と抑《おさ》えて先に通ったのは、やはり神尾主膳でありました。
 それにひきつづいて机竜之助が、手さぐりにして駕籠を出ようとすると、神尾は自分の眼を指さしながら、
「ここが悪い、手を引いてやってくれ」
「畏《かしこ》まりました」
 主膳は先に立ち、竜之助は女に手を引かれて茶屋へ通りました。
「今時分、思い出したように神尾の御前がお出ましになるのはどうしたものだろう、御前は甲府お勝手へお廻りになったと聞いたが……」
 表向《うわべ》は鄭重《ていちょう》に迎えたこの茶屋の内儀が、二人を案内したあとで眉をひそめました。
 ちょうどこの時分に、水道尻の燈明《とうみょう》の方から、馬鹿な面《かお》をして行燈《あんどん》の数をかぞえながら歩いて来る一人の男がありました。それは宇津木兵馬につれられて、甲州から江戸へ出たはずの金助で、
「ちょッ、詰らねえな、俺たちはああして、茶屋から大見世《おおみせ》へ送られる身分というわけじゃあなし、岡場所か、銭見世《ぜにみせ》が
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