この世に永らえているんでございましょう。ただ残念なことには小遣《こづかい》がありませんな。江戸へ着きましたら、少しばかり小遣にありつくような仕事を、お世話をなすっておくんなさいまし。まあ、私共の望みとしてはそのくらいのものでございますねえ」
 兵馬は聞いているうちに、この野郎がかなりくだらない野郎であると思いました。けれどもこんなことを言い言い、自分の心を引いたり目つきを見たりする挙動に、多少、油断のならないところもあるように思いながら、
「金助、お前が、あの神尾主膳の在所《ありか》をさえ確めてくれたら、相当のお礼はする」
「それはなかなか大役でございますねえ」
 金助はわざとらしく大仰《おおぎょう》に言い、
「しかし、あの神尾の殿様は、さすがに苦労をなすったお方だけに、届くところはなかなか届くんでございますから、あそこのところだけは感心でございますがね、あれがまあ、苦労人の取柄《とりえ》でございましょうな」
「苦労したというのはどういうことなのだ」
「どうしてあの方は、なかなか遊んだお方でございますよ」
「苦労したとは、遊んだということか」
「そうあなた様のように生真面目《きまじめ》に出られては御挨拶に困ります、苦労にも幾通りもあるのでございます、日済《ひなし》の催促で苦労するのも苦労でございます、大八車を引っぱって苦労するのも苦労でございますけれど、その苦労とは違いまして、酸《す》いも甘《あま》いも噛み分けた苦労でなくては、苦労とは申されないでございますな」
「神尾主膳という人は、そんなによく物のわかる人か」
「それは人によっては、随分悪く言う者もございますけれど、私なんぞに言わせると、よく分った殿様でございますね、何かというと手首をギュウと取ったり、首筋をグウと押えたりして白状しろなんぞと、そんな野暮《やぼ》なことはなさらずに、金助、これで一杯飲め、なんかと言って下さるのが嬉しうございますね、あの呼吸はなかなか生若《なまわか》い世間知らずのお方にはできません、やはり苦労人でないと……」
「なるほど」
 兵馬は苦笑いをしました。
「そのくらいですから銭《ぜに》は残りません、いつでも貧乏をしていらっしゃるが、ああいうお方に、金を持たして上げたいものでございます、ほんとに金が生きるんでございますけれど、使い道を知っているところへは、金というやつは廻って参りません、因業《いんごう》なやつでございますねえ」

         六

 その後暫くあって、染井の藤堂《とうどう》の屋敷と、染井稲荷《そめいいなり》との間にある旗本の屋敷の、久しく明いていたのに人の気配《けはい》がするようです。
「ああ、化物屋敷《ばけものやしき》に買い手がついたな」
 酒屋の御用聞の小僧なんぞが早くも気がつきました。
 地所が広く、家が大きく、そうして人の住みてのないところは化物屋敷になる。化物が出ても出なくても、化物屋敷であります。どうしても化物が出なければ、人間の口が寄って集《たか》って化物をこしらえてしまいます。
 先代の殿様が、醜男《ぶおとこ》であったにも拘らず、美しいお女中を口説《くど》いたところが、そのお女中には別に思う男があって靡《なび》かない、それで殿様が残念がって、あの土蔵の中で弄《なぶ》り殺《ごろ》しにしてしまったという、あんまり新しみのない筋書の化物が出されてから久しいこと。ようやくこのごろ、人の臭いがするようになったらしいが、土地柄だけに、それほどに新たに移って来た主人の好奇《ものずき》を注意してみようという者もありません。
「小僧、酒屋の小僧」
「へえ」
 閉《とざ》してある裏門の中から、御用聞の小僧が不意に呼び留められたものだから仰天して、
「あ、お化け……」
と言って立ち竦《すく》んでしまいました。
「明日から酒を持って来い、一升ずつ、上等のやつを」
「へえ、畏《かしこ》まりました、毎度有難うございます」
 御用聞の小僧は丸くなって駈け出して、駒込七軒町の主人の店まで一散《いっさん》に逃げて来ました。
「大変……化物が酒を飲みたいってやがらあ」
 唇の色まで変っていたから、番頭や朋輩《ほうばい》の小僧どもも、気味悪く思ったり、おかしく思ったりして、
「どうしたんだ、どうしたんだ」
「あの化物屋敷で、明日から一升ずつ、上等のお酒の御用を仰付《おおせつ》かりました」
「化物屋敷でお酒の御用?」
 次に廻るべき小僧が再び確めに行った時に、ほぼその要領を得て帰りました。それは化物屋敷ではあるけれども、酒の御用を言いつけたは化物ではない。前に言いつけたことが確かであるように、再び念を押しに行った時も、確かに注文したに相違ないのであります。
 しかも最初に御用を言いつけたのは、大風《おおふう》な侍の言いぶりであったのに、二度目に確めに行った時の返事は、なまめかしい女の声であったということが、この酒屋の者の話の種でありました。それから毎日一升ずつの酒が、この屋敷へ運ばれたけれど、御用聞の小僧は、主人らしい人も、奥様らしい人も、また家来衆、雇人たちのような人の面《かお》をも、まだ見かけたことがありません。
「毎度有難うございます……」
と言って酒をそこへ置くと、
「どうも御苦労さま、それから明日はお醤油《したじ》に波の花を……」
というような注文が台所のなかから聞えて、それは女ではあるけれども、さっぱり面を見せないのが変だといえば変であります。売掛けもどうかと思って、その月の半端《はんぱ》の分を纏《まと》めて書付にして出すと、その翌日は綺麗《きれい》に払ってくれました。支払の信用と共に化物の疑念は取れて、それより以上にこの屋敷を怪しがるものはありません。
 この屋敷の一間で庭をながめながら、晩酌を試みているのは化物でもなんでもない、正真《ほんもの》の神尾主膳であります。甲府を消えてなくなった神尾主膳が、ここへ来て浴衣《ゆかた》がけで酒を飲んでいるところを見れば、かくべつ病気であったとも見えないし、また穢多に浚《さら》われて、ここへ流されたものとも見えません。
 それと、面白いことは、神尾の前に晩酌のお相手をしているのが、勝沼の宿屋にいた、もとの両国の女軽業《おんなかるわざ》の親方のお角《かく》であることであります。
「お角、お前はそんなに金が欲しいのか」
 神尾は盃を置いて、お角の面《かお》を見ました。
「御前《ごぜん》、ほんとに、わたしは今となってお金があったらと思います、何をしようにもお金がなくては動きが取れません、全く水気《みずけ》の切れたお魚のようなものでございます」
「それは御同前だ」
と言って、神尾は苦笑いをしました。
「殿様などは失礼ながら、お金をお持たせ申せば、直ぐに使っておしまいなさるけれども、わたしなんぞはそうではございません、それを資本《もとで》に、一旗揚げてみようというのでございますから、全く心がけが異《ちが》いますよ」
「全く頼もしい、お前に金を持たせれば、何か一仕事やるだろう、そこは拙者も見ているけれど、残念ながら金は無い、拙者は金がない上に、世間に面向《かおむ》けもできん、うっかりすると命までなくする」
「それでございますからね、わたしが少し資本《もとで》を工面《くめん》しさえしますれば、殿様にも御不自由をおさせ申さないようにして上げますし、そのほか、困っているお方には相当に貢《みつ》いでお上げ申すのですけれど」
「してその資本の工面がつけば、何をしてみようというのじゃ」
「それは、やはり太夫元《たゆうもと》をやってみとうございます、今でも両国のあの株を買い戻して、看板を換えて花々しくやってみる分には、そんなに骨の折れたことではございません、軽業を土台にして、目新しいところを二三枚買い込んで、一やま当てるには今が時機なんでございます。その道にかけては、わたしも昔取った杵柄《きねづか》で、今の人たちがやるのを見ていると、間緩《まだる》くて腹が立ってたまりません。この間も両国へ行って見ましたら、やっぱり昔のままの軽業や力持でお茶を濁しているものでございますから、今時、あんまり知恵のない人たちだと、ひとり歯ぎしりをして帰りました。わたしがやっていた時分には、軽業や力持はほんの前芸にしておいて、真打《しんう》ちには、人の思いもつかないものを買い込んで、仲間をあっと言わせ、お客を煙《けむ》に捲いて人気を独り占めにしたものでございます。印度から黒ん坊の槍使いを買い込んで、あすこで打ちました時なぞは、毎日毎日大入り客止めで、大袈裟《おおげさ》のようですけれど、江戸中の人気を吸い取ったような景気でございました。そんなことでずいぶん儲《もう》けもしましたけれど、使いも使いました、一つ当りさえすれば、皆様を五年や十年、遊ばしてお置き申すほどのお金はなんでもないことでございます。今となってみると、あの仕事を手放したのが惜しくてたまりません、ほんのひょっとした意地で、ただみたように、人に株を譲り渡したのがこっちの抜かりでございました、ナニ、金さえあればいつでも買い戻せると思ったのが、あんまりたかをくくり過ぎました」
 お角が、もとの仕事に充分の自信と未練を持っての話を、主膳は首を捻《ひね》りながら聞いていたが、
「強《た》ってその資本が欲しいならば、ひとつその秘策を授けてやろうか」
「お心あたりがございますなら、ぜひ伺いたいものでございます」
「化物《ばけもの》はいるか、あの化物は」
と言って主膳は、荒れた庭のあちらに、大きな土蔵の鉢巻のあたりの壊《こわ》れたところを見上げました。この二人が、かなり下腹に毛のない連中と見えるのに、このほかに、まだこの屋敷に化物がいるのか知らん。
 主膳は化物と言って、土蔵を見ながら、
「は、は、は」
と笑いました。
「いけません」
 お角は自分の口を袖で押えながら、主膳を叱るように言いました。
「聞えやせぬよ、大丈夫」
「御前が左様なことをおっしゃるのは、お悪うございます」
「もう言わん。しかし、お前が言わせるように仕向けるから、つい口が辷《すべ》ったのじゃ、悪い心持で言ったのではない」
と主膳は申しわけのような前置をつけて、それからこんなことを言いました、
「あれはお前も知っているかどうか知らん、あの実家はすばらしい物持で、田地も金も唸《うな》るほどある、しかもその家の一人娘じゃ。あの娘の実家を説き立てさえすれば、少々の金を引出すのはなんでもないことだ。お前、その気があるなら一番やってみたらどうじゃ、甲府から三里離れた有野村の藤原といえば直ぐわかる、そこへ行って主人の伊太夫に会い、これこれのわけでお嬢様をお連れ申したといえば、それこそ謝礼は望み次第じゃ。もし当人を連れて行くのが面倒ならばお前だけ行って、お嬢様はただいまこれこれのところにおりますると注進さえすればよい……しかしあの娘を帰すと、拙者《おれ》の足許が危なくなる、そこはあらかじめ仕組んでおかないと」
「そんなことはできません、わたしはそれほどに計略をしてまでお金を借りたいとは思いません、よし借りられるものにしましても、もう二度と甲州の山の中なんぞへ、入ってみようという気にはなりませんから」
「いや、甲州の山が宝の山なのじゃ、全く以てあの女の実家というものの富は、測り知ることができないほどじゃ、惜しいものよ、あれをあのまま寝かしておくのは」
「心がらでございますね、いくらおすすめ申しても、お家へお帰りなさるお心持になれないのでございますから」
「家へは帰られないわけもあるが、ああ逆上《のぼせ》ても恐れ入る、悪女の深情けとはよく言ったものじゃ」
「わたしは、あれこそ何かの因縁《いんねん》だと思いますね、ただ惚《ほ》れたとか、腫《は》れたとかいうだけのことではありませんね」
「因縁かも知れん。このごろ、拙者もあの女の面《かお》を見ると、なんだかゾクゾクと怖いような心持になるわい」
「あのお嬢様は、たしかに御前を恨んでおいでになります、御前とお面をお合わせになると、きっと横を向いておしまいになりますけれど、御前のお後ろ姿や、横面《
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