の疲れで寝込んでしまったのに、米友はそこへ帰って来た模様はありません。
 芸州広島の大守も、四十二万六千石も、肝腎《かんじん》の当人がいないでは、お流れになるよりほかはありませんでした。しかし、米友はただいまここに居合せないまでも、昨今この道楽寺に身を寄せていることだけは、疑いのないことの証拠があります。
 米友はここへ身を寄せて、それらの芸人の仲間に加わって、独得の芸当をして折々、人通りの多い大道に面《かお》を曝《さら》すことを、たしかに見届けた者があります。
 論より証拠、今宵カンテラを点《とも》して、浅草の広小路で梯子芸《はしごげい》をやっているその人が、宇治山田の米友であります。
「さあ、退《ど》いていろ、もう一遍やって見せるからな。危ねえ、子供は遠くへいってろ、怪我《けが》あするとよくねえからな。さあ、これから宙乗りをはじめる」
 紺の股引《ももひき》腹掛《はらがけ》を着た米友は、例の眼をクリクリさせて、自分のまわりを取捲いている群集を見廻し、高さ一丈二尺ほどある漆塗《うるしぬ》りの梯子を大地へ押し出して、それに片手をかけました。
「ちっとばかりことわ[#「ことわ」に傍点]っ
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