ということは、その日のうちにもわからず、その翌日もわからず、三日目になって、ようやく二人の姿を見出すことができました。三日目に二人の姿を見出したところは、もう甲州や信州ではなく、それかといって碓氷峠《うすいとうげ》からまた江戸の方へ廻り直したものでもなく、京都の町の真中へ現われたことは、やや飛び離れております。
 いつ、どうして木曾を通ったか、不破《ふわ》や逢坂《おうさか》の関を越えたのはいつごろであったか、そんなことは目にも留まらないうちに、早や二人は京都の真中の六角堂あたりへ身ぶるいして到着しました。この二人が何の目的あって京都まで伸《の》したものかは一向わかりません。上方《かみがた》の風雲は以前に見えた時よりも、この時分は一層険悪なものになっていました。例の近藤勇の新撰組は、この時分がその得意の絶頂の時代でありました。十四代の将軍は、長州再征のために京都へ上っていました。その中へがんりき[#「がんりき」に傍点]と七兵衛が面《かお》を出したということは、かなり物騒なことのようだけれども、その物騒は天下の風雲に関するような物騒ではありません。
 この二人が徳川へ加担《かたん》したから
前へ 次へ
全200ページ中45ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング